2021/04/30

明治四年三月十一日 (1871/4/30)

「晴れ。十時に杉を訪ね、一旦宿に戻った。山田と会う約束をしていたので、三輪惣のところに行き、ベルリンと面会、食事を共にし、彼から二三の新しい報せを聞いた。四時過ぎに湯田で温泉に浸かり、五時に糸米の旧宅に帰った。」

==========

ベルリンは山口藩の雇った外国人で、プロイセンの出の人間だ。彼は山口中学に語学教師として招聘されたのだが、この山口中学というのは幕末の明倫館を改名したもので、中学と呼ばれていはいたが、どちらかと言うと高等教育に近かった。我々はこの翌年、英人ダルネー夫妻も語学教師として招いている。

2021/04/29

明治四年三月十日 (1871/4/29)

「晴れ。毛利のところ、次に中山のところに行った。十二時過ぎに、金毘羅神社にお参りをし、詣法泉寺の旧宅を見に行ってから戻った。山縣、小幡、杉、野村、大津、久保、井上、吉田、宮城が来た。我々は酒と会話を楽しみ、六時過ぎに解散。私はこちらに一泊した。」

2021/04/28

明治四年三月九日 (1871/4/28)

 「ようやく晴れた。寺内が訪ねて来た。十一時頃に吉富を訪ねたが、不在であった。たまたま秋元源太郎、他数名と鉢合わせになり、彼等から最近の平民達の苦境について話しを聞き、根本にあるいくつかの問題点を理解することが出来た。現状を鑑みるに、これらの人々のことは憐れに思う一方だ。根本的な改革が行われれぬ限り、何万という人々が貧困に身をやつすことになってしまうであろう。故に、今こそ根底から改正すべきだという望みは、今後も強くなる一方であろう。野村靖之助を訪ね、麻翁の墓前で手を合わせ、湯田に行き、その後糸米の旧宅に行き、最後に六時過ぎに宿に戻った。七時頃に再び宿を出て山縣を訪ね、我々は一緒に井上と揚井を訪ねたが、両社とも不在であった。最後に小幡餅山を訪ね、十二時に就寝しに宿に戻った。」

2021/04/27

明治四年三月八日 (1871/4/27)

 「雨。連日の雨でじっとりとしている。この七日間、一日として晴れるのを見ていない。大津、野村、山田、その他来客が絶えなかった。十一時過ぎに藩廟に向かい、退出する際に小幡を訪ねたが不在であった。宿に戻ると、山縣、小幡、杉が話をしに来た。酒を飲みつつ談笑していると、山田、木梨、野村、中村、三好、杉山も来て、軍の問題について談じた。私は山田と現状について議論を交わした。まず五時過ぎに山田と一部の客が去り、六時過ぎに山縣と残りの客が去った。」

2021/04/26

明治四年三月七日 (1871/4/26)

 「雨。岩倉卿、山縣兵部大輔、三浦兵部小丞、佐畑謙助、斎藤新太郎、山尾工部大丞、内海神奈川大参事宛に手紙を出した。神戸の長門屋を通じて届けるようにと、これらの手紙を杉富之進に託した。十二時に杉を訪ね、その後青木の所へ行き、それから山田に会った。その後湯田に行き温泉に浸かり、三好、野村、中村、杉山、田中と二三杯飲み交わした。山田と殿川と一緒に歩き、七時過ぎに宿に戻った。それから山縣のところへ行った。」

2021/04/25

明治四年三月六日 (1871/4/25)

 「雨。三好が話しに来た。十一時過ぎに藩廟に行き、知事公に拝謁。公に御覧頂けるよう、昨冬廣澤が私に送った二通の手紙をお渡しした。廣澤は藩情について深く憂いており、その想いについては語るのも難しい。この手紙を読む度に、私は深く感じ入らずにはいられない。昨夜、宮城尚三が卒と陪臣について話しに来て、私達は侍と平民を将来的に同列にするための布石として、卒と陪臣を士族に統合すべきだという件について同意した。今日の藩廟では、この案を認めるという決断が下されたと聞いた。山根秀輔が今日発った。今朝、内田助七が大楽、及び昨年以来九州に潜伏している反乱分子を捜索していると話しに来た。助七も、山根に同行して出発した。私は二時過ぎに藩廟を出て、小幡のところに昼飯を食べに行き、杉、竹田、青木を訪ねて湯田に向かった。岩国の安田源蔵も訪ねたが、既に彼の藩に帰った後であった。七時頃に宿に戻り、東京宛の手紙を書いた。九時ごろに山縣が碁を打ちに来て、今日、山田兵部大丞(顕義)が山口に戻ってきたと聞いた。記、岡浅二郎が東京から戻ってきた。巡察使の命を受けた長松小辨が来て、下関からの私宛の手紙を届けてくれた。なんでも私が以前建言した内容に関する話だという。」

2021/04/24

明治四年三月五日 (1871/4/24)

 「雨。山根秀輔が九州事情について話しに来たので、私は政府の現状と、此度の九州出兵の意図、また時勢の流れ全般について語った。秀輔は近々巡察使一行の一人として九州に発つ予定だ。竹田佑伯、青木群平、瀧弥太郎が訪ねて来た。私は温泉に一度浸かってから十一時頃に宿を発った。途中に阿部平を訪ね、一時に自分の宿に戻った。宮木直蔵が来て、陪臣と卒を廃止し士族に統合し、更には士農工商を廃し、皆国民とすべきだと論じた。これこそ正しく私が平素から主張してきた話であり、我々は如何にしてこの案を実現にこぎつけるかを議論した。木梨精一郎が陸軍局の内情と軍隊の課題点について話しに来たので、私は出来る限りのことをすると約束した。品川弥五郎も来訪、三時過ぎには山縣と井上も来た。我々は一緒に宿を出て、萬内屋、上山家、小幡家、柏村家を過ぎ、大津の所へと向かった。山縣と他の者達が帰った後、私は酒と食事を嗜んでから七時過ぎに宿に帰り、東京宛の手紙をしたためた。それから山縣を訪ね、十二時に就寝しに宿に戻った。」

=========

明治政府の朝令暮改の一つが『卒族』階級だ。所謂、同心や足軽など、下級家臣達を士族と区別するために明治三年に作られた階級なのだが、およそ二年後には廃止された。近代の戸籍制度は明治五年に始まったのだが、その時の統計にはまだ残っており、卒族は士族のおよそ半数であったことがわかる

2021/04/23

明治四年三月四日 (1871/4/23)

 「雨。山縣弥八と山縣源八が来訪。十一時頃に山縣達と高杉の所に向かい、飲み語った。杉も参加した。その後一同で野村の所に向かうと、大津も加わった。大津、杉、野村と共に廣澤の家を訪ね、この忠臣の位牌の前で手を合わせた。廣澤一家の悲しみの深さは言葉に出来ないほどに深く、また私自身もこの家には何度も来ていたものだから、目に映る何もかもが彼との思い出を想起させた。柏村が訪ねて来て、我々は黄昏時に去った。三氏と別れてから、私は湯田に向かった。正二郎は朝の内に湯田まで来ていて、私達は共に湯につかった。結局私は一泊した。三好、中村、杉山、その他数名が私に会いに来た。今日、宍戸、佐畑、吉富、藤井又八十衛、惣兵衛に手紙を出した。記、岩国の安田源蔵が訪ねて来た。」

2021/04/22

明治四年三月三日 (1871/4/22)

 「雨。今朝、小幡が来た。大津も来て、我々は一緒に山縣の所へと向かった。三四人の客人達が碁を打っており、我々も酒を飲みつつ談笑した。私は友人達と糸米まで行きたかったのだが、雨のせいで歩くことは叶わなかった。五時過ぎまで話し、その後宿に戻った。杉が来た。」

==========

小幡さんは今日の萩の名産である『夏みかん』の父と呼んでいいお人だ。前原が率いた明治九年の萩の乱の後、困窮した士族達を救うために、小幡さんが侍屋敷の土地を利用して大規模栽培を始めたのが、産業としての始まりだ。夏みかんの香りは、萩を訪れた昭和天皇陛下にも、お褒めを頂いている



2021/04/21

明治四年三月二日 (1871/4/21)

 「晴れ。楫取と貞永が訪ねて来た。十時頃に宿を出て貞永の所に行き、酒と食事を楽しんだ。二時過ぎに山口城下町に入り、中村屋に向かった。そこから藩廟に向かい、御両公に拝謁した。私は東京での情勢を伝えると共に勅命をお渡しし、六時頃に退出した。大津と杉と共に小幡を訪ねたが不在。山縣を訪ね片山に向かった。プロイセン人のベルリンとも一緒で暫し話し込んだ。柏村権大参事、木梨連、殿川市助も同席。十一時頃に宿に戻る。今日、三田尻の土井屋に雛人形を贈った。土井屋はここ七年来の私の定宿で、主人の岡某に今年女の子が生まれたと聞いたからだ。」

==========

雛祭りの風習は古来よりあるものだが、雛人形を飾るのが人気になったのは江戸時代以降だと聞いている。私が贈ったこの人形は、江戸の後半から明治にかけて人気になった『古今雛』というもので、煌びやかな衣装や、水晶やガラスの玉眼が使われているのが特徴だ



2021/04/20

明治四年三月一日 (1871/4/20)

 「晴れ。強烈な西風。十二時頃に強風も収まり始めたので、錨を上げ周防海へと乗り出した。室積沖で波が高くなり、乗客の半数は酔ってしまった。六時半に龍ヶ口に到着。直ちに上陸し、土井屋に向かった。杉と野村は山城屋に滞在したが、他は皆私の宿に泊まった。」

2021/04/19

明治四年二月三十日 (1871/4/19)

 「曇り。八時頃、雨が降り始めた。暁に鞆沖を過ぎ、十一時過ぎに御手洗を通過、六時頃に上関に到着。肥後屋を訪ねている間は雨足も遠のいていたが、夜になりまた降り始めた。1868年の春、私は浪華での戦いが始まる前に山口を発ち、その道中、京都の不穏な状況について聞き及び、心中切迫しつていた。しかし風に行く手を阻まれ、この宿に数日宿泊せねばならなかった。最終的に、風潮に逆らい広島まで辿り着き、蒸気船を雇い尾道に至ったのであった。今夜こうして往時を思うに、ひどく感慨深かった。十一時過ぎに帰艦し錨を上げたが、強烈な西風のせいで周防海に出ることが叶わず、また上関まで戻ってきた。」

==========

長州から見て、瀬戸内海の西端には下関が、東端には上関がある。私が泊っていた肥後屋はこの地で一番の名宿で、八月十八日の変で都落ちとなった五卿が三田尻に向かう途中に宿泊したのもこの宿だ。東行と私の定宿でもあった肥後屋は、私にとって思い出の深い場所だ



2021/04/18

明治四年二月二十九日 (1871/4/18)

 「晴れ。朝の内に散歩し、外国店で時計やその他雑貨を購入。十時過ぎに丁卯艦に乗り込むと、富士艦の船長が訪ねて来た。十一時過ぎに錨を上げ、四発の祝砲を上げた。富士艦は十五発の祝砲を返した。丁卯艦が四発しか打たなかったのは、弾薬が不足していたからだ。なんでもこの儀礼はつい最近定められたのだという。私も新政府の一員だが、この一件については知らなかった。我々一行に加え、田中敏助も大阪で乗艦してきた。」

==========

祝砲は元々イギリス海軍が発明した儀礼で、『弾倉を空にしましたよ』とこれ見よがしにすることで敬意を示すのが由来だという。何発撃つかは賓客の位の高さにもよるため、我々岩倉使節団が後に洋行した際には、毎回新しい国に到着するたびに受けとる祝砲の数の多寡にやきもきさせられたものだ

2021/04/17

明治四年二月二十八日 (1871/4/17)

 「雨。骨董屋の大吉、播吉、山中屋が来た。今回蒐集したのは古銅の釣瓶、古銅の香炉、古染付の花瓶、小切二枚を合わせた山湯高濱の掛け軸であった。世外(井上馨)と素狂(山縣有朋)に手紙を書いた。吉井源馬と山田市之丞(顕義)が来た。宗像宗十郎と大岡大眉も来訪。四時前に藩邸前から舟に乗り松島へ、そこから神戸行きの川蒸気に乗り込んだ。六時に到着し、布引屋に一泊。」

==========

書道と酒宴と花見を除けば、骨董品の蒐集は私の一番の趣味と言っても良い。この時の出張でも、中々素晴らしい品々を集めることが出来た。『もう置くところがないんだから少しは控えてください』と松は言うが、骨董品は集めるも楽し、眺めるも楽し、また人に上げるのにでも便利ということで止め難い。

ちなみにこの日私を訪ねてきた骨董屋のひとつ山中屋は、入り婿である山中定次郎の手により山中商会として明治後半に躍進する。明治二十八年(1895年)、誰よりも一早くニューヨークで店舗を開いた彼は、その後もボストン・ロンドン・パリと矢次早に出店し、欧米の日本ブームを捉えることに成功した。あのメトロポリタン美術館も『我々が二十世紀初頭に素晴らしい日本のコレクションを築くことが出来たのは、ひとえにYamanaka & Coのおかげだ』と言っているぐらいだ。山中商会はその後、第二次世界大戦のせいで在外資産を凍結され、店舗も閉鎖されたが、商会自体は未だに存続している



2021/04/16

明治四年二月二十七日 (1871/4/16)

 「晴れ。杉、野村、小川と大吉に会いに行ったが、主人が不在であったので、新斎橋通りに出て、河吉の所で本を購入した。また、主人の秘蔵の一品である竹田作の掛け軸を拝見した。そこから山中屋に行き、数十の書道と水墨画を鑑賞。二時過ぎに山田市之丞(顕義)を訪ね昼食を共にした。その後、舟で桜宮に向かい、川沿いの桜で花見をした。舟中には酒も茶も無く、ただ美しい景色のみを純粋に楽しんだ。絶妙であった。桜宮の川べりを散歩していると、私はふと、1864年の秋にこの地で斃れた我が息子、勝三郎を思い出し、私は悲しみに押しつぶされた。それからはこの景色もただ切なく、孤独にしか見えなくなった。その後、遠藤謹助を訪ね、造幣局を視察した。帰り際に舟で北堀に寄り、川佐楼で酒と食事を楽しみ、十一時に藩邸に帰還。十二時過ぎに井田五蔵が訪ねて来た。彼は東京での状況を懸念しており、朝廷が不良の輩共を一掃し、管中を整理し、凛然たる威厳を取り戻すことを望んでいた。朝廷の現状については、私も思うところ、口を開くのも辛いことも多い。私の最近の心痛は名状しがたいものだ。」

==========

勝三郎は私の姉、八重子の子で、私の最初の養子だ。十七歳の若さで禁門の変に参加したが負傷……敵の捕虜になることを良しとせず、大阪桜宮の舟中で潔く自決した…… 桂の名に恥じぬ、私の誇るべき息子だ。今は私と共に京都の霊山に眠っている




2021/04/15

明治四年二月二十六日 (1871/4/15)

 「雨。七時過ぎに、布引屋で朝食を食べた。十時過ぎに福山藩の蒸気船に乗り、二時過ぎに大阪に到着。常安邸に行き、六時過ぎに杉、野村、小川と共に播吉を訪ね、書道と水墨画を見た。その後川佐楼に行き、十二時に帰邸。三条卿、岩倉卿とイギリスに留学している河瀬宛に手紙を書いた。朝二時過ぎに強烈な風。記、張秋谷の画の表装が終わったと、五兵衛が持って来た。」

2021/04/14

明治四年二月二十五日 (1871/4/14)

「雨。昨夜から腹の調子が酷く、全く無気力であった。五時に紀州大島を過ぎた。」

2021/04/13

明治四年二月二十四日 (1871/4/13)

 「曇り後雨。宍戸、山縣、井上、その他の客人達は昨夜、我が家に泊まっていった。家は活気に溢れ、私の門出を見送る客で一杯であった。十時前に出発、外務省門前に至り、外務省の馬車に乗り換え、二時頃に横浜の山城屋に到着。シュミットが正二郎を連れて来て、そこで我々は数刻会話した。浜田県の佐藤県知事と白根多助に会い、大隈に佐藤を紹介する手紙を書いた。豊原……が訪ねて来た。彼は正二郎と共に洋行する命を受けており、それで私が正二郎と共に帰郷するのを引き止めるようにとの井上世外(馨)からの言伝を伝えに来たのであった。しかし正二郎は病がちであり、今暫し保養するのが良しと私は判断し、結局彼を一緒に連れていくことにした。四時に山城屋を発ち、豊原を訪ねた。更にシュミットを訪ねる予定であったが、その道すがら彼と鉢合わせになり、彼は我々を見送りに船まで付いて来た。正二郎と別れる時のシュミットの悲しみは深く、激しく涙を流していた。私にも彼の気持ちは良く分かり、つられ泣きしてしまった。五時に錨を上げた。今回の船名はゴールデン・エイジ(黄金時代)だ。記、杉、野村、三好と徳山の遠藤貞一郎が同船していた。乗艦時に激しい降雨。」

==========

シュミットは英国大使一行の通訳の一人だ。彼とは正二郎と私が箱根に滞在していた際に会い、少し話す機会があったのだが、その折に正二郎の賢明さに感心したシュミットが、正二郎を彼と一緒に住まわせ英語を学ばせましょうと提案してきたのであった。突然の申し出で面食らったものだが、話してみるとシュミットは信頼に足る人物であるようであったので(私は人を見る目はあるのだ)、これからの時代は英語が非常に大切であるということも踏まえ、私は正二郎を彼に一年預けることにしたのであった

2021/04/12

明治四年二月二十三日 (1871/4/12)

 「晴れ。南風と砂埃。二時頃に障岳(広沢真臣)の墓参りをし、暮字を記した。溢れる想いを抑えるのが難しかった。今春の夕方はまるで秋暮のようだ。三条公に拝謁し、幾つかの案件について愚案を建言した。どれも今日の急務だ。宍戸を訪ね、廣澤邸に行き、三浦を訪ね、六時過ぎに帰宅。加藤弘蔵が訪ねて来て、酒を飲みつつ数時間談論した。永安、長、吉富、笠原、斎藤、杉山、吉村、その他大勢の来客あり。飲み、語り、二時過ぎに就寝。記、本日付けで、正二郎が大蔵省の命で英国に行くよう任を受けた。」

2021/04/11

明治四年二月二十二日 (1871/4/11)

 「晴れ。七時過ぎに岩倉卿に会い現況について議論してから九時過ぎに参朝。岩倉卿、大久保と私は二時過ぎに御前に呼び出され、御酒と食事を賜った。四時頃に退出し染井に向かうと、庭の桜は七八分咲きになっており風光明媚であった。だが今年の春は去年とは違い、私は心中不満に思っていることがある。今日、後藤雲濤(象二郎)夫妻、杉猿村(孫七郎)、平岡夫妻、老伊藤夫妻、その他数名が花見に来た。八時過ぎに解散、私は九時過ぎに帰宅した。」

==========

今日各所で見られるソメイヨシノは、私の別荘があった染井の造園師達が明治に育成したもので、実は意外と歴史の浅い品種だ。元は桜の名所吉野山にあやかり吉野桜と呼ばれていたが、それでは本物の吉野の桜と紛らわしいということで今の名になった。東京招魂社(靖国神社)の桜も私が植えたソメイヨシノだ



2021/04/10

明治四年二月二十一日 (1871/4/10)

 「曇り。大島似水が来た。三吉慎蔵も話しに来た。長府の知事公に拝謁し、彼の方の御学問についてお話した。この一件について、私は杉山耕太郎の代わりに加藤弘蔵に託すことにして、事細かに指示をしておいた。二時過ぎに小原鉄心が訪ねてきた。岩国の人と会う約束をしていたので、それで宍戸と共に有明楼に向かった。十時に両国橋で下船し、人力車に乗って家まで帰った。東京に人力車が来て以来、私が乗るのは今回が初めてだ。宍戸も別の人力車に乗って帰った。有明楼を出た後、土佐の容堂公を訪ねたが外出中であった。」

==========

人力車は一年前の明治三年に和泉要助、高山幸助、鈴木徳次郎の三名が発明製造したのが始まりだとされている。彼等は専売特許を得ようとしたが、これは上手くいかず、私がこうして明治四年に乗ったころには既に大量の業者が人力車事業に参入した後であった。人力車は世界に誇っても良い、見事な日本の発明であり、香港やインドなどアジア圏に展開しただけでなく、英語圏ではRickshawという日本語由来の名で知れわたることになる



2021/04/09

明治四年二月二十日 (1871/4/9)

 「晴れ。野村素助と藤井勉三が話しに来た。三隅市之進が来た。三隅は善良で将来有望な若者だ。私はだからここ一年、洋行したいという志を持つ彼の手助けをしてきた。それが此度、彼が民部省によって、米国に農業を学びに行く一人に選ばれたので、私は彼と諸事を打ち合わせた。大久保と山縣に手紙を出した。大久保の返答には、岩倉卿との会合の内容が書かれており、それを元に私は岩倉卿の所へ向かい数刻議論した。久留米と福島両方からの報告があり、どちらの場合でも浮浪の徒が暴動を扇動していたとのことであった。杉猿村(孫七郎)が来た。岩国の知事御兄弟も来られた。五時過ぎには容堂公もお出ましになられ、我々は酒を飲みつつ雑談した。十二時に解散。」

==========

容堂公とは藩も違えば年も出自も違っていたが、なぜか非常に馬が合い、良く会っては酒を飲み交わしたものだ(私も大分いける口だが、容堂公は私が下戸に見えるほどに酒好きであった)身分の低かった者達が実権を握ることになった新政府のことは余り好いておらず批判的で、また和服以外も着ようとはされなかった。だが時勢と言うものは良く理解しておられ、例え泥酔し気勢を上げ現状を憂いても、版籍奉還や廃藩置県と言った肝心な事柄については協力的であられた



2021/04/08

明治四年二月十九日 (1871/4/8)

 「晴れ。十時に参朝。福島県で頑迷な人民達による蜂起が起きたと聞く。元より兵部省は、越・奥羽に軍隊を派遣しておくことを提案していたのだが、今日もこの議論が再燃した。三時に退出、神田邸に行き長府の三吉慎蔵と会い、知事公の御学問について議論した。その後約束していた通り後藤を訪ね、これに板垣退助も加わり、一緒に飲み語った。十一時に別れた。」

==========

福島県川俣付近で起きたこのような農民騒動は、明治初期には日常茶飯事の出来事であった。凶作で年貢の納入が難しかったところに、催促厳重が極めたのが原因だとされている。厳密な数は分からないが五百人近くの集まりが官邸を襲撃し、打ち壊しや放火をしたというのだからたまったものではない。この事件後には三十人近くが捕らえられ、絞首や杖刑に処された。これが明治六年以降になると、蜂起の動機も経済的なものから政治的なものに変わり、士族達による反乱の方が増えることになる。兎に角明治最初の十年は安定とは程遠く、多くの血が流れた。我々新政府重鎮達の心労も、察してほしい……

2021/04/07

明治四年二月十八日 (1871/4/7)

 「晴れ。十時に参朝、三時に退出。伊東寛斎を訪ね、その後、留守中である伊藤芳梅(博文)の家を訪ねた。米国に手紙を送る方法があるとのことであったので、芳梅と甥の彦太郎宛に手紙を書いた。東京権大参事の平岡を訪ね、数刻にわたり時勢を議論し、また(廣澤の)暗殺者どもの捜索状況についても話した。七時頃に帰宅。」

==========

俊輔はこの当時、福地源一郎や芳川顕正と言った面子と共にアメリカまで出張中であり、日本の貨幣制度を今後どのように発展させるかを研究している途中であった。女好きで軽いイメージが先行している俊輔だが、あれはあれ、実はかなりの勉学家で、良く本を読み、学者と議論し、それを現実世界での制度に落とし込むことを得意とした、正に明治時代の官僚の鏡と言える奴であった(彼自身が一番誇りに思っていると私に言ったのは、後の大日本帝国憲法の研究と制定だ)この渡米でも、俊輔の建議により新貨条例が制定され、日本は世界の標準となり始めていた金本位制に乗り遅れずに済んだ


彦太郎、後の孝正は正二郎の兄で、栗原さんと私の妹治子の長男だ。彼は当時まだ十六歳であったが、日本近代化の責務を背負い、鉱山学を学びにアメリカまで留学していた。彼の在学していたアマースト大学は名門中の名門で、世界に対し門戸を開いており、日本からは他にも新島襄や内村鑑三と言った面々が在学していた。彦太郎は正二郎の死後、その養子になり木戸家を相続し、私の娘である好子と結婚したのだが、この結婚は好子が齢僅か十八で早世してしまったため、二年しか続かなかった……彦太郎、改め孝正は山尾の娘さんと再婚し、この二人の間に生まれたのが木戸幸一だ



2021/04/06

明治四年二月十七日 (1871/4/6)

「曇り、雨、曇り、雨、後晴れ。十時前に参朝、三時に退出。岩倉卿に幾つかの愚案を論述した。後藤雲濤(象二郎)を訪ね、長時間議論した。六時頃に帰宅。今日は、上京した岩国横道から二匹の雁を、宇和島大蔵卿から五匹の小鴨の贈り物を頂いた。韮山の岡田三郎が来た。」

=========

伊達宗城公は幕末四賢侯の一人なのだが、他の御三方と比べどうも知名度が低い気がする。だが公が傑物であったのは間違いなく、二十代半ばで宇和島藩の家督を継ぐと藩政改革を推し進め、この小藩を他藩が注目するほどに近代化することに成功した。大村益次郎を含め有能な人材確保に尽力し、パークスやサトウなど外国人とも積極的に交流したうえに、果てには外国人技師の協力なし独力で蒸気船まで作ってしまったのだから痛快な話だ。維新後にも新政府に関与し、短い期間ではあったがこの当時は大蔵卿と民部卿を兼任していた。この日頂戴した小鴨は大層美味であった



2021/04/05

明治四年二月十六日 (1871/4/5)

 「曇り。二三件、内密の件ついて相談するために、岩倉卿がお越しになられた。杉猿邨(孫七郎)が来た。米田と安場の両大参事も来た。山縣素狂(有朋)も話しに来た。時田少輔、三吉慎蔵、長親兵衛も来た。一時過ぎに、四藩建言の進捗状況を相談に大久保参議を訪ねた。その後、杉に会いに神田邸に向かい、四藩建言について大久保と議論したと報告し、我が藩での布告についてや、因幡と備州関係について等を議論した。帰り道に、宍戸刑部少輔を訪ね、六時過ぎに帰宅。夜、杉山と山縣と話し、此度の新聞局開局における私の意図を語った。遠境の人々にも、諸藩で行われている、広くは世界で起きている改革について広く知らしめ、時勢近情について理解を深め、開化を促したいのだ。福井も同席していて、会話に参加した。今日、神田邸から寺内真一を家まで連れて来た。」

==========

この年刊行された『新聞雑誌』や、『東京日日新聞』(後の毎日新聞)からも分かる通り、私は文明開化における新聞の重要性をよく理解しており、その普及を積極的に後押ししていた。だが政府に好意的な御用新聞が主流であったのは、明治でも僅か最初の数年だけの話で、自由民権運動が盛んになった明治七年以降は政府批判が目立つ新聞も多く出回り始め、政府は言論統制を始めなくてはならなかった。言論の自由と言った概念は、当時上り調子であったアメリカ合衆国でも良く叫ばれたものだが、明治初期の不安定な時代、誰しもが新政府に不満を抱いていた時代には劇薬以外の何物でもなかった……



2021/04/04

明治四年二月十五日 (1871/4/4)

 晴れ。終日在宅。熊本藩の大参事、安場が話しに来て、此度の山口藩の建言について、朝廷が何の手も打たず、代わりに薩長土肥に九州巡察使に同行する兵隊を拠出せよとの命を下したと聞かされた。私はこの件について、代わりに効果的な組織体制を組むことでこの目的を達成すべきだと朝廷に建言するつもりだ。地方分権による権力の分散には、皆頭を抱えさせられてきた、しかし朝廷はこの問題に対し、どう対処するかの確実な政策を未だ打ち出せていない。現状のように、各藩からの建言に頼るのは上策とは言えない。過去三百年の長きにわたり、三百超の各藩は各々が違う方法で運用してきた。二三里離れれば、人々の風習は異なり、言葉も違えば、無論行政も異なる。もし旧政府の同心同力に時勢の流れを理解させ、朝廷を助けようという気にさせられれば、この懐古的視点は自然に消滅させることが出来るであろう。だからこそ我々は目前の提案を推し進めなくてはならない。今日、山縣狂介と西郷吉之助にこの持論を展開してみたが、どうも齟齬があるようであった。安場は我々の建言が実行されないでいることに不満があったようで、私の意見を尋ねに来た。朝廷に建言するのは各藩の権利であり、その建言を取捨選択するのは朝廷の権利だと私は論じ、故に、我々は建言書を提出し意見を表明すべきだと説明した。安場はこれに満足したようであった。岩倉卿からのお手紙が届いた。」

==========

安場保和は面白い人間だ。熊本の出で、薩長の人間ではなかったが、西郷・大久保・私と、全く異なる三者全員の信頼を勝ち得ており、地方行政を任せられた。中でも大久保の指示の元、福島(会津)県令として安積疏水を開いたのは、彼の素晴らしい業績の一例だ。北方領土の重要性も良く理解しており、千島警護に関する提案書を提出していた程だ。彼にまつわる面白い話と言えば、岩倉使節団の一件がある。彼は使節団一行の中でも珍しい『ドロップアウト』で、米国に着くなり、英語が話せない自分が同行するのは税金の無駄遣いだと言い、さっさと帰国してしまった。中々出来ることではない



2021/04/03

明治四年二月十四日 (1871/4/3)

 「晴れ。山縣狂介(有朋)、宍戸三、藤井勉が話しに来た。昨夜、世外(井上馨)が岩倉卿の伝言を手紙で書き送ってくれ、今朝もう一通が届いた。その主意は私が参朝するようにと勧めるものであった。なんでも岩倉卿と辨官一同が今日私に相談しに自宅までお越しになられるつもりだという話であったので、私は病をおして参朝した。三時過ぎに退出。その後、神田邸に向かい豊浦と岩国の両知事公に御挨拶をした。野村と藤井を見かけ、暫く山口藩の状況について議論した。それから薩摩藩邸に向かい、西郷と会い別れの挨拶をした。世外(井上馨)も訪ね、井田五臓、太田里一、亥和太と会った。更に、井上小豊後を訪ねたが、病がぶり返してきたので、そのまま帰宅。既に六時近くであった。世外宅で、杉、野村、宍戸にも会った。深夜に地震。ここのところ地震が多かったが、今日のは特に強烈であった。記、後藤からの手紙が届いた」

2021/04/02

明治四年二月十三日 (1871/4/2)

 「晴れ。山縣篤蔵、三好軍太郎、長岡精助と染井の別荘に向かった。正二郎も連れて行った。十二時に到着、数時間ほど飲んでから中村梅荘に行った。梅の花は半分ほど散ってしまった後であったが、それでもまだ数百本は咲いており、その香りが空気を満たしていた。花の下に配置された茂みも良い味を出していた。主人に何杯かの薄茶を馳走になった。そこから別荘に戻り、六時過ぎに帰宅。」

=========

この二三か月後、私が出資者、山縣篤藏が主筆となり『新聞雑誌』を創刊した。廃藩置県を始めとした政府の政策の意図、国内事情や海外事情について広く国民を啓蒙し、文明開化を推進するのが目的であった。三年ほどで廃刊にはなってしまったが、長三州なども寄稿してくれた良い情報誌であった



2021/04/01

明治四年二月十二日 (1871/4/1)

 「晴れ。遡ること二月十日の夜、私は一人静かに回想していた。三条公の邸宅、西郷や他の者達が同席していたあの朝、私は未だに根強く残っている従来からのやり方の弊害に対する警告を論じるのに熱くなりすぎてしまった。今思うと少し恥ずかしく、そこで朝の三時であったにも関わらず、岩倉卿宛に手紙をしたためた。今朝、井上世外(馨)が岩倉卿の伝言を伝えにきたので、私はあの手紙の中で表すことの出来なかったことを陳述した。西郷吉之助が訪ねて来て、互いの藩の事情と国家の情勢について議論し、朝廷の現状にも話が及んだ。山縣素狂(有朋)も話しに来た。」

==========

どうも私は感情的になりすぎるふしがあり、言ってしまった後、やってしまった後で後悔することが少なくなかった……このツイッターも、リアルタイムではなく何日分か予め登録しておくことで、書いたら悔いてしまうことは書かないようにしている。便利な世になったものだ

明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...