2021/01/31

明治三年十二月十一日 (1871/1/31)

 「朝のうちに小雨、急に止む。九時過ぎに大久保を訪ね、共に岩倉卿に相談に向かう。その後、造幣局に向かい、そこで想像以上に優れた装置に驚かされた。従来の造幣局の仕事は疎かであり、偽造も稀ではなかった。井上と馬渡の手配で、各種の器械がどう動くのかイギリス人キンダーから説明を受け、これは黄昏時までかかった。帰り道に、大久保の所に寄って、酒を飲みつつ碁を打った。三人の碁の名手が同席していた。記、河村兵部大丞と松方民部大丞が東京から到着した。太政官から、日田県での騒動を鎮圧するようにとの委任状が届いた。」

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大久保を相手に碁を打つと、負ければ当然悔しいのだが、勝ったら勝ったで、普段なかなかお目にかかることの出来ない鬼の形相を目の当たりにすることになる。さて、どちらが良いのか……


このキンダー氏は元は香港鋳貨局の長官だったのだが、パークスとグラバーの紹介で大阪造幣局に招致された。この仕事の重要性もあり、彼は三条公を越える高給取りであったのだが、流石その給料に見合っただけの仕事をしてくれた。だが遠藤とは性格的にあまり折が合わなかったようで、彼はこれから五年と経たぬうちに他の外国人達と共に雇用を解消され、造幣局は日本人のみによって運用されるようになる。明治初期の御雇い外国人の命運とは、大体そういったものであった



2021/01/30

明治三年十二月十日 (1871/1/30)

 「晴れ。山縣と鳥尾が来た。十二時過ぎに、井上世外(馨)を訪ね川を渡った。彌吉(勝)も同行した。六時過ぎに大久保を訪ねたが、不在。そこから長州藩邸に移動し、一晩を過ごした。」

2021/01/29

明治三年十二月九日 (1871/1/29)

 「晴れ。七時に舟で淀川を下り始め、四時頃に網島に到着。井上彌吉(勝)を訪ねたが不在であった。代わりにご老人に会い、彼と暫し会話した。昔と変わらず壮健であられた。山田を訪ねる。夜には佐々木、松本、河野と井上が訪れ、結局全員が泊って行った。」

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彌吉(勝)は所謂『長州ファイブ』の一人で、俊輔、聞多、山尾、遠藤の密航仲間だ。一年前の私の呼びかけに応え、以来、新政府の鉄道事業に携わっていた。当時の日本は技術力に欠け、イギリス人技師のモレルに頼りきりであったが、彌吉は良く学び、モレルが事業半ば斃れた後も鉄道開業に尽くした



2021/01/28

明治三年十二月八日 (1871/1/28)

 「昨夜から雨と雪。東山の景色の美しさは比肩するものがない。来客絶えず。槇村に東京宛の手紙と、プロイセンの青木周蔵宛の手紙を預けた。莱山から半紅の手による絹の掛け軸を購入。四時過ぎに京都を発ち、町中に伏見の鼈甲屋に到着した頃には、町中に灯がともされていた。山縣と高屋はすでに鼈甲楼に到着していた。」

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私は色々な長州人の兄貴分を務めてきたが、中でも周蔵には良く懐かれていたと思う。彼は早くから西洋に留学しており、少し先の話になるが、後にドイツ滞在中に現地の令嬢エリザベートと結婚した。貞介とは違い、こちらはちゃんと長続きし、ハナちゃんと言う非常に愛らしい娘さんにも恵まれた



2021/01/27

明治三年十二月七日 (1871/1/27)

 「晴れ。雑多な来客。日田県への出兵について話しに、山縣素狂(有朋)と高屋……が浪華から来た。この問題についてどう対処するかは、先日岩倉卿の所で戦略を定めていたので、今日は指示の詳細を詰める為に岩倉卿亭へと向かった。最近、浮浪の徒が浪華に到着し、僧侶や不平の輩達を集めて日田県の人民を扇動し、一揆を引き起こして県庁を襲い、また周防の大島郡にも攻め入り金や穀物を強奪したとの噂を伺った。この連中は昨春長州で反乱を起こした大楽隊や他の隊とも繋がっているとの話だ。如何にこれらの連中を取締るか、岩倉卿と議論した。夕方、前田松閣が来た。彼とは二回ほど会っており、前回京都に来た時には私に治療を施してくれたのであった。槇村と藤村に頼まれた揮毫を仕上げた。今夜は中村楼に井上夫人を招待しており、私は五時頃に祇園へお参りしてから、彼女に会いに茶屋へと向かった。三味線と舞は酒をさらに旨くした。山縣と高屋も加わり、私は十時過ぎに高屋の泊まっている松力に向かった。旧友の君遊が居て一時の談笑を交わした。十二時に宿に戻り就寝。記、大久保は今朝出立。」

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山縣は面倒事に巻き込まれがちな質で、当時も引っ切り無しに戦に駆り出されていた。彼の後世の評価は汚職・反政党・反社会運動といった否定的なものが多いが、あれはあれで人の面倒見が良く、律儀で、新しいものに飛びつかない慎重で、良い奴であった。俊輔とは正反対の気質だが仲は良かった



2021/01/26

明治三年十二月六日 (1871/1/26)

「晴れ。槇村と藤村の両参事が、在京政府の事情と時勢について話しに来て、私は彼らに正直な意見を伝えた。彼等は十二時前に去った。大久保も私を訪ねて来た。三時過ぎに、莱山、平原と私は八新楼の天狗会に向かい、鳩居老も一緒に来た。帰り道に清雅と莱山に寄り、十時頃木屋町に戻り、井上夫人に会う。十二時頃に就寝。記、兵部省の用件で、藤村が来た。」

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槇村は幼馴染で、私は彼に実質的な京都の運用を任せていた。彼は有能で、陛下の遷都以来萎んでいた古都を盛り上げることに成功していた。教育の重要性も理解しており、日本初の小学校を設立したのも彼の成果だ。私は後に新島襄のことも彼に推薦したが、教育熱心な二人は中々馬が合ったようだ



2021/01/25

明治三年十二月五日 (1871/1/25)

 「晴れ。雑多な来客。二時頃に大久保を訪ね、共に岩倉卿の所へと向かい、在京政府の役割等について議論した。夜十時頃に宿に戻った。」

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二人は幕末、まだ岩倉卿が蟄居される前、公武合体を目指し色々と画策していた時代からの付き合いだ。双方とも名より実を取る主義で、目的の為には手段を選ばない所も似ていた。少し妬ましい程に強い信頼で結ばれており、同志と言うよりはむしろ兄弟に近かったかもしれない



2021/01/24

明治三年十二月四日 (1871/1/24)

 「夜明けに風雪。窓を開け放つと、東山と鴨川は一面の銀世界であった。この景色の美しさは筆舌に尽くし難い。岩倉卿から手紙と共にお茶と洋酒の贈り物を頂戴した。十一時過ぎに、月波楼に泊まっている大久保を訪ねると、そこには村田新八も居合わせていた。酒を飲みつつ談笑し、四時過ぎに退出し、前田松閣に会いに行った。そこから岩倉卿の元へ向かい、現状について密談を交わし、七時頃に宿に戻った。莱山が朝訪ねて来た。夜には、浪華から到着した平原も話しに来た。」

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岩倉卿は権謀術数で知られているが、その実非常に質素で気さくなお方だ。私もそうなのだが酒が大層にお好きで、大事な話のときにはいつも徳利を抱え込み、良く対酌で語り合ったものだ



2021/01/23

明治三年十二月三日 (1871/1/23)

「晴れ。七時に宿を引き払い、難波橋まで小舟で向かい、利渉丸に乗船。八時過ぎに錨を上げ、四時過ぎに伏見に到着。蒸気船で川を上ったのはこれが初めてだ。この国の文明開化は目覚ましい。往時を振り返るに、その時々は遅いと感じていた変化が、実はいかに早いものであったのかを思い知らされた。七、八年前のことを思い出すたびに、私が今日まで生き延び、このような船に乗っていることは意外もまた意外だ。伏見の鼈甲屋で竹輿を雇い、それで京都へと入京した。六時であった。槇村の所に行き、柏楼に泊まった。」

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この蒸気船については歌川芳雪も美しい浮世絵を描いている。ちなみに淀川の蒸気船は明治後半に鉄道が栄えるにつれ廃れていったわけだが、つい二三年前から淀川浪漫紀行という名で復刻ツアーが行われている。私もまた乗りに行きたいものだ





2021/01/22

明治三年十二月二日 (1871/1/22)

「曇り。昨朝から私を探していた井上世外(馨)、山田顕義、山縣素狂(有朋)が、ようやく堺辰楼で私と落ち合い、一緒に京久楼に向かった。鳥尾と河野も参加。二時過ぎに井上世外と富田楼に行くと、土佐の岩崎某(弥太郎)、高野兵部少丞と、馬渡某はもう来ていた。」

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岩崎弥太郎はこの当時、設立して一年ほどしか経っていない九十九商会の経営に関わっていた。土佐藩の連中が作った商会で、主に藩から払い下げられた三隻の船による海運業を営んでいたわけだ。これが後の三菱商会だ。それもあり、晩年は聞多と頗る仲が悪かったと聞いている



2021/01/21

明治三年十二月一日 (1871/1/21)

 「十二時に神戸に到着。平時ならば七時か八時頃に到着したのであろうが、昨日は西風が強く、三、四時間ほど遅延したのであった。長門屋を訪ね、そこから川蒸気で浪華に向かった。松島で上陸し、常安邸の小川を訪ねたが不在。この日の宿の尾道屋に移動し、佐々木次郎四郎と河野亀之進と共に、南堺辰へと繰り出した。小川と宗像も飲みに参加。」

2021/01/19

明治三年十一月二十九日 (1871/1/19)

 「晴れ。九時に馬車で出発。家の皆が、私を門前で見送った。廣澤の所に寄って用事を済ませてから大久保の家に向かい、そこから横浜通商司役所まで彼と同乗、十二時に到着。正二郎が来て、山城屋まで一緒に移動。藤井、野村、殿川達に会う。井上省三と南貞介が来た。大隈と山尾も話しに来た。四時に全員が私を海岸で見送り、我々は五時に錨を上げた。記、艦名はオレゴンであった。」

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このオレゴンという船は、元は米国の太平洋郵船会社の運用していたもので、この会社は1848年に米国北西部の開拓を支援するために設立されたのであった。折しも1849年にはゴールドラッシュが沸き起こり、彼等の運用する汽船は米国の東部から西部へと物資人材を運ぶのに非常に役立ったという



2021/01/18

明治三年十一月二十八日 (1871/1/18)

「晴れ。朝から来客が絶えなかった。三時過ぎに馬車で黒田了介(清隆)、福岡藤次(孝弟)、宍戸三郎と門脇……を訪ねる。後藤、大隈、山口、江藤達が訪れた。黄昏時に島団衛門を訪ねる。夜になると廣澤、三浦、長、吉富、福井、河村、有吉、斎藤、杉山等、多くの客が私の門出を祝いに来た。十二時頃に解散。」

2021/01/17

明治三年十一月二十七日 (1871/1/17)

 「晴れ。九時に参朝。国法についての御前会議が行われた。三時に退出、後藤と共に馬車で今戸の容堂公の別荘を訪ね、十二時過ぎに帰宅。英国人達の暗殺を試みた下手人達の捜索が行われる中、同時に欧州各国の法に沿ったポリス制度を整えるべきだという説が出た。私はこれに対し、もし上(政府)と下(人民)の間に調和があれば、東京中の人民全員が耳目の役割を果たしてくれるはずだが、もしこの二つの間に調和が無かったとしたら、例え数千人のポリスを揃えたところで、今回のような暴行を防ぐことは叶わないと主張した。なぜ政府は、ヨーロッパ人が被害を被った時に限り本気で人命を保護しようとするのか?我々自身の国民が殺された場合にも、我々は徹底的な捜査を行うことが肝要だ。だがヨーロッパ人受難の際には、その国の公使等から圧力がかかり、結果として厳密な捜査が行われるのに対し、我が国民受難の際に行われる捜査は疎かなのが実情で、これは憤慨すべきことだ。私は政府でもこの主張を大いに議論したが、どうやら私の意見は今日日少数派のようだ。」

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この事件の後、ハリー・パークスを中心とした各国の公使達から刀を廃止するよう圧力がかかった。我々は結局一年と経たぬ内に散髪脱刀令を発し、更に徴兵令と警察制度が整えられた五年後、廃刀令を発布することになる。これは抗いようの無い時代の流れであり、明治は正に新旧が鬩ぎ合う時代であった



2021/01/16

明治三年十一月二十六日 (1871/1/16)

 「晴れ。一日中在宅。朝の七時から夜の十二時に至るまで、数十名の来客。長(三州)、下、岩国の……等が藩政について論じに来た。」

2021/01/15

明治三年十一月二十五日 (1871/1/15)

 「晴れ。九時に参朝。今夜、大久保参議と私は、陛下の御前で御内命を頂き、そして辨官で次のような御達しがあった『木戸参議、此度は御用の儀の為、山口藩へと派遣する』四時に退出し、二人の伊藤(伊藤博文と伊東寛斎)、築地の平岡を訪問、八時過ぎに帰宅。記、昨年から、大久保と私は国事について深い議論を重ねてきた。今回の旅はその成果だ。野村大参事、井上新一郎、橋市等が泊りに来た。」

2021/01/14

明治三年十一月二十四日 (1871/1/14)

 「風雪。三条公から手紙が届く。今日は新嘗祭の休日だ。昨夜、南校の御雇いイギリス人達……が暴行されるという事件が起きた。下手人達はまだ捕まっていない。右大臣(三条実美)の要請で、私と廣澤は一緒に参朝し、三時に退出した。先日友人に頼まれた額縁入りの揮毫を仕上げた。板垣退助が来訪、五時過ぎには廣澤も来た。我々一同は新嘗祭を祝いに神祇官に参上、諸官員達も来ていた。十二時に帰宅。」

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この事件の被害者、ダラスとリングは御雇い語学教師で、高橋是清の同僚でもあった。二人は妾を引き連れて歩いており、しかも途中で護衛を返した後、提灯もつけずに築地から日本橋を渡った所で暴漢に襲われたのだ。この時期にその様な振る舞いをするなど不用意も良いところだと思うのだが……

二人はかのウィーラー先生の治療のお陰で一命を取り留めた。ちなみダラス氏はこの後米沢藩に教師として招聘され、そこで食べた米沢の牛肉を横浜の居留地仲間に紹介し、その販売網の立ち上げを助けてくれた『米沢牛の恩人』だ。人の縁とは奇妙なものだ。



2021/01/13

明治三年十一月二十三日 (1871/1/13)

 「晴れ。十時に参朝、退出後、正親町三条卿亭で会談。五時に帰宅。夜には斎藤新太郎、吉富藤兵衛(簡一)、福井順道、河瀬県知事(秀治)が来訪。」

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吉富は同じ湯田出身である聞多の幼馴染だ。昨年山口での反乱の折には私の脱出を助け、更にその鎮圧に成功した有能な男であった。私は後に彼を岩倉使節団に推薦したが、彼はこれを断り山口に残った。聞多・俊輔・山縣とは一生涯の盟友で、彼等が中央を、吉富は地元の政治基盤を掌握していた



2021/01/12

明治三年十一月二十二日 (1871/1/12)

 「曇り。十時過ぎに染井に向かい、帰途、後藤を訪ねたが不在であった。山尾の新居を訪問し、四時過ぎに帰宅。篤信斎(斎藤弥九郎)がお越しになられ、南貞介も来た。貞介は私の周旋の結果、近日イギリスに向けて出発する予定になっている。今日は私に挨拶をしに来たわけで、記念にと揮毫をせがまれた。彼は一泊して帰った。」

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貞介は東行の従弟で、私もよく目にかけてやっていた。彼についてはイギリス滞在中の面白い逸話が二つある。彼は船旅の最中に知り合った欧米人との縁から、とある銀行の役員になる機会に恵まれ、我々岩倉使節団が後程欧米を訪問した際などには、自慢げにこの銀行に預金することを勧めたのであった。

岩倉卿や大久保、私も含めた多くの使節団員は彼を信頼して私費を預けたのだが、なんとこの銀行は折悪く倒産の憂き目に遭い、我々の預金は海の藻屑と消えたのであった。幸いにも金庫番の田中光顕君が預金に反対してくれたお陰で使節団の公費は安全であったが、なんともヒヤリとする事件であった。

もう一つの面白い話は、彼がロンドン滞在中にエライザ・ピットマンなるイギリス婦人と正式に結婚をして、これが日本人としては初の国際結婚だったという話だ。だがエライザ嬢は貞介を日本の富豪だと思っていた節があり、また貞介は貞介で『ハーフの子供が欲しいんです』などと不純な動機で結婚したらしく、なんとも愛に欠ける婚姻であったようだ。更にこのエライザ嬢は中々の激情家で、後に貞介が聞多に書いたところによれば、ある時などは貞介を日本刀で斬り付けることもあったと言う。結果、二人は十年ぐらいで別れてしまった。

2021/01/11

明治三年十一月二十一日 (1871/1/11)

 「晴れ。宍戸敬宇、山縣素狂(有朋)、片野十郎、林半七、三浦梧楼、内海精一郎(忠勝)、名和緩(服部哲二郎)、澤田達が話しに来た。」

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内海は山口の外れにある吉敷の貧家の五男坊だが、吉敷仲間の哲二郎共々、禁門の変からの歴戦の兵だ。俊輔に気に入られ、神戸で政府の為に働いた後、岩倉使節団にも参加して長崎・三重・兵庫・長野・神奈川・大阪・京都と各地の知事を歴任した。動乱期にには出自よりも能力の方が出世に重要だという話の良い例だ



2021/01/10

明治三年十一月二十日 (1871/1/10)

 「朝曇り、その後雨。九時に三条公に会い、そのまま参朝、四時過ぎに退出。廣澤と共に宍戸敬宇を訪ね、六時過ぎに帰宅。今朝、斎藤新太郎が……屋敷の問題について話しに来て、今夜また同じ問題について話をしに戻ってきた。」

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新太郎先生は斎藤弥九郎先生の長男で、元を辿れば、廻国修行の最中に神道無念流を長州に紹介したのも彼であった。下関事件の折には、偶々下関に居合わせたというだけの理由から、敵の軍艦に切り込もうと庚申丸に乗り込みになられた豪快な御仁であった



2021/01/09

明治三年十一月十九日 (1871/1/9)

「晴れ。朝、大久保が国元の事情について話しに来た。昨年の冬、大久保と私は勅命を受け、薩長の支援を確約するために各々の郷里に向かった。だが予期せず国元での反乱に遭い、最後は武力で兇徒達を抑えざるを得ず、結局元の目的を達成することは叶わなかった。我々は問題を先延ばしにしてきたが、今日これを機に、各々の郷里に戻り計画を推し進めたいと考えている。我々はこの件ついて議論し、十一時頃に一緒に参朝して、我々の目的を三条公に伝えた。三時頃に退出、帰り際に廣澤の所に寄り、五時に帰宅。三条公からの手紙が届いた。」

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大久保を語るに140文字は少なすぎる。彼は人々がまだ藩に忠誠を誓っていた明治の草創期から『日本』の概念を理解することのできる数少ない人間の一人であった。我々が意見を違えるのは少なくなかったが、他の何を置いても日本に尽くす、この一点において、私は彼を完全に信頼していた




2021/01/08

明治三年十一月十八日 (1871/1/8)

「雨、豪風。九時に参朝、三時に退出。槇村半九郎と船越洋之助に手紙を出した。大木民部大輔と、江藤中辨を招待し、廣澤もこの会合に参加した。東京に着いた殿川一助も来た。二人の芸妓、阿福と小照が酌をした。男共は十時に帰り、二人の芸者は一泊してから帰った。」

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小照と再会したのは、明治二年、正月の祝いの席のことであった。伏見での戦いから一年、当時の回顧を肴に宴を催したときに来た七人程の芸妓の一人が彼女で、私を呼び止めたのだ。彼女を通じて、私は今は亡き友達とかつて柳橋で過ごした時を思い出し、思わず人目を憚らず泣いてしまったものだ……

2021/01/07

明治三年十一月十七日 (1871/1/7)

「晴れ。十二時過ぎに参朝。正午前後に強烈な雨。二時に退出、廣澤と馬車で彼の家に向かった。四時過ぎに山尾と、つい最近新居に引っ越したばかりの三浦梧楼を訪ねた。夜になり、雨足が強くなった。今日は一家総出で猿若劇場に向かった。」

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三浦は短気でヤンチャな若者で、私もよく弟分として可愛がってやったものだ。彼は何よりも薩長の藩閥政治を嫌っており(それで山縣とはいつも反目していたが)、情実の打破は私が信ずるところであったこともあり、よく膝を交えて話したものだ



2021/01/06

明治三年十一月十六日 (1871/1/6)

「晴れ。佐久間正之助と檜了助が来た。四時、佐久間と私は典医の伊東を訪ねに馬車で築地に向かったが、不在で、五時頃に帰宅。山縣素狂(有朋)が来た。伊東は私の不在中に来たのだと聞いた。記、品川弥二郎がニューヨークからヨーロッパの近況について手紙をくれた。」

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弥二郎は当時、普仏戦争見分のためにヨーロッパに派遣されていた。彼は勤王芸妓で名高い君尾の心を見事射止めた幸せ者で、戊辰戦争の折には、彼女と一緒に官軍歌を作曲作詞したりと仲睦まじくやっていたらしい(君尾と聞多が昔恋仲であったことは、彼の前では話してはならない)



2021/01/05

明治三年十一月十五日 (1871/1/5)

 「晴れ。十時前に参朝。三条公に、幾つかの政府案件について意見を求められた。廣澤を西方に向かわせるという決断が下された。薩摩の状況については公私双方の観点から日頃苦心していたこともあり、このような良い報せを聞くと、国家のためにも喜ばしい。四時頃に退出、帰り道に大木を訪ね、酒を飲み交わしながら話をした。その後、廣澤宅に寄ってから、七時頃に帰宅。山尾常二郎の洋行について、黒田了介(清隆)と話した。」

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三条公は親長州派の公家の筆頭格で、文久の時分からの長いお付き合いだ。彼はいつも政治的に難しい状況で板挟みになられていて、気苦労が絶えなかったであろうことは想像に難くない。彼は優れた決断力をお持ちだったわけでも、特に聡明であられたわけでもなかったが、誰よりも方正謹直であられ、個性豊かな新政府のまとめ役を務めることは、彼と岩倉公を除いて他の誰にも成しえなかったのではないかと思う



2021/01/04

明治三年十一月十四日 (1871/1/4)

 「晴れ。九時に正親町三条卿と大久保は東京に、私はエリオットの所に向かった。十時過ぎに馬車で東京に向けて発ち、一時過ぎに築地に到着、伊藤宅で昼食。大隈を訪ねた帰りに神田邸に寄り、廣澤を訪ね、七時になってようやく帰宅。井上彌吉(勝)が泊りに来た。」

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エリオット氏はニューヨーク州生まれのアメリカ人歯科医で、この時齢僅か三十歳であったが、後に日本人初の歯科医となる小幡英之助の師匠になった人物だ。彼は人気の医者であったが、日本人で彼の治療を受けることが出来たのは、新島襄、小西郷そして私ぐらいのものだ



2021/01/03

明治三年十一月十三日 (1871/1/3)

 「深夜十二時に錨を上げて阿波の……に向けて出発した。荒波のせいでそこでの灯台を見分することは叶わなかったので、十一時に相模の剣崎灯台に向かった。そこで三時過ぎまで諸器械を降ろしてから、六時頃に横浜へと帰還した。正親町三条卿、大久保と私は通商司會舎に向かい一泊した。私はそこから正二郎のところに向かい、私と一緒に過ごせるよう連れて来た。」 

2021/01/02

明治三年十一月十二日 (1871/1/2)

 「暁雨、風もようやく落ち着いてきた。六時に錨を上げ、昨晩初めて灯がともされた三ヶ本へと向かった。灯台にも登り、見分した――これは皇国第一の品で、途轍もなく優れた代物だ。八時過ぎに下田に戻り、十時過ぎに錨を上げて蓮台寺にある……宿へ向かい、温泉に閑静な時を過ごした。ここにはこれまで二度ほど来たことがあり、一度目は十七年前、二度目は十六年前であった。十七年前はプチャーチン提督に指揮されたロシアの軍艦が沖に来ていたときのことで、彼の船は津波に沈められたのであった。下田の家々も全て、この波に沈められ、千人近くが命を失った。宮田の守備隊に配属された私と中村百合蔵は、蓮台寺にしばし滞在していた。この旅で、私は箱根山脈の中で大地震を経験したのだ。十六年前は浦賀で商船に乗ってここまで来ており、再び蓮台寺に一泊してから、戸田へと向かったのであった。プチャーチンは前年にスクーナー艦(帆船)を造調しており、私は長州もこの例に倣うよう建言し、二人の船大工を雇い長州のためにスクーナー艦を作るように命じていた。諸藩の中でも一足先に造船や海軍を追求することを唱えたの我が藩であった。当時、このような軍艦を作り得た藩は皇国内に一藩二藩しか無かった。あの旅で下田に来ていた私のために、中島三郎助は色々と周旋してくれたのであった。三郎助と彼の二人の息子達は昨年、函館での戦で命を落とした。私は常に彼の先見の明を尊敬していた。だから昨年、主君の狂気のせいで彼が道を誤ろうとしていると感じたときには、なんとか彼を探し出し、時勢について忠告しようとしたものだ。だが時既に遅く、彼はすでに函館に発った後であった。これは私の一生の遺憾だ。この十六年、十七年、言葉では表せないほどに何もかも変わってしまった。私が今日まで生き延び、この地に再び戻ってくるなど、まったく予想できなかった。どうすれば君父様(毛利元親)の大恩にお返しが出来るのか、私にはわからない。イギリス人のサトウが四時前に来た。正親町三条卿や大久保等と共に下田まで川を下り、半田屋で飲食を楽しんだ。十時過ぎに船に戻った。」

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中島三郎助はペリー来訪時に身分を偽ってでも黒船に乗り込み、交渉をする傍ら船の機構を調査し、更にはその学びを生かして造船や航海に携わるなど、素晴らしく柔軟で行動力にあふれた人物であった。もし彼が生きて新政府に来てくれていたら、一体どれほど貢献してくれたことか……



2021/01/01

明治三年十一月十一日 (1871/1/1)

「暁雨、終日曇り。横須賀を七時前に発ち、四時に下田に到着。今日も再び強烈な西風が吹いていた。三ヶ本に到着すると、海上から灯台を見たが、上陸は出来なかった。下田で下船し、半田屋で少し寛いでから十時過ぎに船に戻った。」

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この灯台がある神子元島は、伊豆下田港から10kmほど南下したところにある岩礁で、昔からよく船が暗礁に乗り上げることで知られていた。幕府が列強と改税約書を調印した際に、このような灯台を日本各所に設置すると約束したのだ(実際に建てたのは我々だが……)ちなみこの灯台は150年経った今でも現役だ。



明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...