2021/03/31

明治四年二月十一日 (1871/3/31)

「晴れ。大久保参議が話しに来た。山縣狂介(有朋)と三浦梧楼も来た。大木民平と江藤新平が訪ねて来た。宍戸と杉も話しに来た。三条公のお手紙が届いた。昨日信州から戻ったばかりの福原狂介も今日会いに来た。」

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江藤は極めて優秀な法家であったが、同時に潔癖と冷徹が過ぎるところがあった。私は長州勢だけでなく、彼や大隈の様に他藩の人間でも有能な人材は採用することを強く支持していたが、彼はそれでも薩長が権力を握りしめていることが面白くなかったらしく、私の洋行中に大分色々とやらかしてくれた。それでも私自身は彼の事は嫌いではなく、後に彼が謀反に加担し捕らえられた時にも彼の為に三条公に存命を願う手紙を出したが、これは実現せず、彼は異常なまでの早さで処刑されてしまった。またいずれ詳しく書くであろうが、彼の人生一の失敗は、大久保を敵に回してしまったことであろう



2021/03/30

明治四年二月十日 (1871/3/30)

「晴れ。井上世外(馨)が訪ねて来た。下二介と米田虎雄が話しに来た。正三卿(正親町三条実愛)もお出ましになられ、今日の朝廷での評議の内容について伺った。明日は西郷、板垣、杉が召喚される予定だ。」

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正親町三条公は岩倉公の同輩と言うべきお方だ。二人は和宮降嫁運動の頃から二人三脚でやって来られており、大久保と廣澤に倒幕の密勅が下された時にも、岩倉公が起草された文を正親町三条公が書いたとされている。私より一回り上の方であったが、どうやら私を信頼されていたらしく、よく相談を受けた



2021/03/29

明治四年二月九日 (1871/3/29)

「晴れ。三条公と岩倉公が、昨日の建言の主意と、私の真意を尋ねにお越しになられた。三条公が山口藩建白についてお話をされるにつれ、私は自分の深情をご説明差し上げなくてはならないと感じた。六時前、廣澤の家に位牌を拝みに向かった。この悲痛は実に耐え難い。位牌を目の前にしても、彼が死んだとはまだ信じられない。河瀬が泊りに来た。」

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一体誰が何の目的で廣澤に手をかけたのか、必ず見つけるようにと天皇陛下が御命じになられ、厳重な調査が行われた。ポリスは一時、家令と妾が怪しいということで逮捕したものの、裁判の結果彼等は無罪放免となり、結局、暗殺の下手人は分からずじまいであった。私はその後も調査を続けるよう強く主張したのだが、やはり異人が害された時とは違い、この調査も次第に尻すぼみになってしまい、未だに真相は不明だ……

2021/03/28

明治四年二月八日 (1871/3/28)

「晴れ。山縣素狂(有朋)が訪ねて来た。岩倉大納言もお越しになられた。後藤象二郎も話をしに来た。四時に三条公の邸宅に向かうと、板垣退助、杉孫七郎、西郷吉之助、大久保参議が同席しており、我々は三藩に関する提案を建言した。時勢の変遷、世論の有様を考えている内に、私の心中にある悲嘆の気持ちが大きくなりすぎ、遂には今日の情勢に対する私の意見を論じ、不覚にも涙を流してしまった。六時に退出、杉と同じ馬車で帰った。」

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今こうして日記を読み返してみると、私は本当に良く泣くな……大久保は何も言わないが呆れた顔をするので、彼の前ではあまり泣きたくないのだが、一度想いが溢れてしまうと、もはや自分では制御できないのだから仕方がないだろう……

2021/03/27

明治四年二月七日 (1871/3/27)

「朝、雨。作間が訪ねて来た。十時頃に三条公が俄かにお越しになられ、此度の一件ついて相談なされた。また、岩倉公が昨日東京へとお戻りになられたと伺った。槇村半九郎(正直)からの手紙が届いた。」

2021/03/26

明治四年二月六日 (1871/3/26)

「晴れ。今日も来客が盛んであった。岩国と豊浦の両知事公がお越しになられた。三吉慎蔵、長新兵衛、下徳太郎が同行していた。長吉公も来られた。門脇が訪ねて来た。板垣退助も話しに来て、今日の事について議論した。夜に雨、吉富が泊りに来た。」

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三吉は槍の名手で知られ、特にかの寺田屋事件では坂本君の護衛としてその見事な腕前を披露した。百人に及んだといわれる包囲網を抜き、坂本君を薩摩藩邸まで送り届けたのは素晴らしい功績だ。坂本君が暗殺された後にも、奥方のお龍さんを土佐まで送り届けたという、非常に義理堅い男であった



2021/03/25

明治四年二月五日 (1871/3/25)

「晴れ。昨日と同じく、来客多し。二時過ぎに雨、夕方にかけて晴れた。プロイセン人ケンパーマンが話しに来た。記、有富新助が話しに来た。今は津野新左衛門と名乗っているそうだ。」

2021/03/24

明治四年二月四日 (1871/3/24)

「晴れ。来客絶えず。大隈参議、井上少輔、山口中辨、三浦小丞が話しに来た。記、森寺が話しに来た。河瀬安四郎の手紙が届いた。」

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河瀬安四朗(真孝)は東行の信頼も厚い奇兵隊の精鋭であったのだが、維新直前になり洋行を願い出るという中々に柔軟な思考も持っていた。私は彼のためにグラバーと話をつけ、彼の英国留学を周旋した。この経験を活かし、彼は後にイタリアとイギリスでの外交に励むことになる

ちなみに河瀬の結婚相手である英子夫人は大恩ある江川先生の次女で、その縁から彼女は婚姻前に私の養女となった。流石は先生の娘さん、彼女はイギリスでもイタリアでも才媛ぶりを遺憾なく発揮し、通訳無しにイタリア国王とも会話をされたそうだ(写真は松と英子さん)



2021/03/23

明治四年二月三日 (1871/3/23)

「晴れ。朝、周布金槌、小倉右衛門介と河野光太郎が来た。彼等は明日、私が周旋した洋行に出発する。彼等には、海外在留中の人々への伝言と幾つかの用事を頼んだ。九時にエリオット先生を訪ね、歯薬を頂いた。十時過ぎに横浜を出て、一時前に大森の梅屋敷に向かった。梅の花はもう半分ほど既に散ってしまっていた。二時に河崎屋で食事を取り、井上世外(馨)が人を送って寄越したので、彼を訪ね、そこで杉、宍戸、野村、藤井、井上彌吉、赤川雄三と会った。五時過ぎに帰宅。長、三浦、小野、杉山、井上、河村、佐々木、加藤、斎藤、天野、沢畑、その他数十名の来客。私達は飲み語り、時事を憂いた。我等の亡き友、障岳(広沢真臣)に話題が及ぶと、私は一言だに出来なかった。ちなみに今日は大隈が私を私の家で待っていたと、また昨日には私が帰ってきたと知った十数人が私を訪ねて来たと聞かされた。神田邸から八人の兵士達がやって来て、宿直警護に当たった。」

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今で言う京急蒲田にあるこの梅屋敷は、広重の名所江戸八景にも含まれた快い庭園だ。徳川の将軍達、数多くの志士達、そして明治天皇陛下にすら親しまれたこの庭園は、私の大のお気に入りであった。もう建物は残っていないが、庭園は公園として残っている。行ってみてはいかがかな?



2021/03/22

明治四年二月二日 (1871/3/22)

「晴れ。内海と他の者達が訪ねて来た。私は二時過ぎまで布団の中で過ごした後、諸氏と散歩に行き、歯科医のエリオット先生を訪ね、その後プロイセン公使を訪ねた。公使とケンパーマンには長州公からの贈り物である漆器と縮緬をお渡しした。今日はプロイセン皇帝の誕生日だそうで、また戦勝記念日でもあるそうだ。プロイセン公使館は飾られており、祝砲や花火が打ち上げられていた。夜には諸氏達と飲み語った。記、公使とケンパーマンには例のプロイセン人の雇用を周旋頂いた。」

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ケンパーマンは維新以前1866年から日本に滞在しドイツ・プロイセンの公使館に勤めていた。彼は二十歳少々で日本に来たこともあり、我等の言葉を流暢に話せ、当時上り調子であったプロイセンについて知りたい我々にとっては非常に貴重な人材であった。彼も日本の文化や語学に大分関心があったようで日本国内を良く旅しており、いくつもの日本学を出版している。彼は勿論キリスト教徒であったのだろうが、彼の本からは神道に対する関心や尊敬が見て取れて、興味深い。出雲大社まで訪ねた異人は珍しいのではないのだろうか?



2021/03/21

明治四年二月一日 (1871/3/21)

「曇り。強烈な北風。六時過ぎに横浜に到着したが、上陸は困難であった。正二郎に会いに三好と共にシュミット宅に向かう。今夜は通商司出張所に宿泊。こちらは以前、遠藤謹助の公宅であったが、今は坂田通商権正の住まいだ。坂田は肥前の人間だ。池上が話しに来た。内海も来た。他にも来客多し。私は神戸で船に乗る前から気分が優れておらず、無理を押して港に来なくてはならなかった。今日もまた気分が優れず、卒倒しかけた。覚悟を決めて、なんとか意識を保っていた。発熱と頭痛、両方に悩まされた。医師の羽賀……が来診。斎藤新太郎と藤井八十衛も来た。」

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正二郎は私の妹、治子と栗原さんの子で、跡継ぎの生まれなかった私の養子だ。(正二郎の前には勝三郎という養子が居たのだが、彼は惜しくも禁門の変の折に自刃して果ててしまった……)正二郎は聡明な子で、この当時は、私がふとした機に会ったシュミットなる異人の元で語学研修に励んでいた。正二郎は後にイギリスに留学、更にはドイツの兵学校にも留学したのだが、病に倒れ、僅か二十四歳でその生涯を終えてしまった。今思っても涙せずにはいられない……ちなみに次に木戸家を相続した孝正は実は正二郎の兄であり、正二郎は兄を養子とする非常に奇妙な経験をすることになる

2021/03/20

明治四年一月三十日 (1871/3/20)

「晴れ。海は穏やかで、四時と五時の間に富士山の正面を通過した。」

2021/03/19

明治四年一月二十九日 (1871/3/19)

「晴れ。朝、県知事の中山が来た。大西郷も来た。板垣大参事も来た。小川からの手紙が届いた。プロイセン人に贈り物を頂いた。山田の手紙も届いた。小川大属と吉井民部大丞宛に手紙を出した。山縣素狂(有朋)が話しに来た。昨日ニューヨーク号が港に着き、今日四時に出発。昨夜、林少丞が会いに来て、私の護衛に兵部省が派遣した十人の兵隊達がこの船に乗って横浜からやって来たと伝えてくれた。参議をこれ程までに重んじるのは宜しくないと、私はこの朝令を頑なに断ろうとしたが、最終的には受け入れざるを得なかった。四時に乗艦、五時過ぎに錨を上げた。」

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倒幕佐幕関係なく、暗殺が日常茶飯事であった幕末の動乱期を生き抜いた我々からすると、物々しい護衛達に囲まれて過ごすのは若干見苦しい、というのが私の本心であった。これは西郷や大久保も同じ考えであったようで、人は常に護衛をつけるよう彼等に忠告し、時には無理やり付いて回っていたが、彼等自身はこれを不要と考えていた。大久保などは内務卿になった後ですら大した護衛をつけておらず、それが原因で遭難することになったわけだが、私が彼でも同じことをしたであろう

2021/03/18

明治四年一月二十八日 (1871/3/18)

「曇り、午後に少し晴れ。昨夜と今日、私は柏村と高杉の両参事宛の手紙を書き上げた。内容としては、一つには血気盛んな若者達に関する愚案、一つにはお雇い外国人に説諭すべし内容、一つには有能な人材は出自に関係なく下層の人間でも取り立てるべしという考え、一つには若者達の望みを絶つのは好ましくないという考え、一つには下役人を雇う際には大目的について理解ある人間を選ばないと新しい法や制度の理解が足りず市民を混乱させてしまう等々、徒然の考えを両参事宛の手紙に記し、今日帰藩する予定の宮木に託した。プロイセン人も今日長州に向かう予定のようだ。彼とは宿で一度、東京公使館でも一度会っている。殿川も一緒に帰藩の予定だ。雲揚丸は今夜二時に錨を上げるという。フランスとプロイセンの停戦が報じられているが、フランス南部はまだ降伏していないそうだ。夜、山縣と長門屋が話しに来た。十二時過ぎに三好一行が戻ってきた。」

2021/03/17

明治四年一月二十七日 (1871/3/17)

「曇り後雨。朝、長谷川を訪ね、彼の書と画を拝見した。吉井源馬が話しに来た。西園寺雪江も来た。品川省吾は訪ねて来た。山田と山縣が話しに来た。今日我々は、御親兵計画に着手する。鳥尾も話しに来た。一時過ぎに出発、大久保を訪ね、そこから軍の護衛に守られながら松島で乗艦。錨を上げる頃には二時過ぎになっており、神戸港には四時過ぎに停泊、布引屋に至った。航海中、まるで麻の如く乱れた雨が降っていた。夜、殿川と山縣が話しに来た。記、今日私が乗った船は先日浪華に向かう時のと同じ船であった。今朝発つ予定であったのだが、遅延があったのだという。霊鑑寺、宮内、西川、晋一郎と父君壮一が政府への建言書を持って来た。」

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布引は日本の三大神滝の一つで、伊勢物語に取り上げられているぐらいに古くからの名所だ。 広重の絵や、明治時代の写真を見てもわかる通り、非常に荘厳な景色で、私も滞在を楽しんだものだ。温泉宿等があった辺りは今は新神戸駅で、大分見た目も変わってしまったが、荘厳な滝は今も変わらず流れている




2021/03/16

明治四年一月二十六日 (1871/3/16)

「曇り。来客山の如し。松田京都大参事も態々大阪からお越しになり、私達は時事を議論した。松田は十年来の知己だ。山縣、山田、三好と会議を開き、御親兵やその他将来の課題について議論し、新たに着手する事々の計画を立てた。河内宗一郎が、会津人の日下一郎をを連れて来た。日下は私に身上を託すとのことであったので、私は吉井と相談し、今日、吉井宛の紹介状と共に送り出した。河野は毎日訪ねて来てくれている。佐々木と松本も来た。記、西郷信吾(従道)が話に来た。大阪の権典、石田太郎も来た。五兵衛に張秋谷の画の表装を依頼した。」

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維新後、私は有能な人材は、出自を問わず誰でも採用しようと可能な限り努力したが、それでも会津の人々には不要に肩身の狭い思いをさせてしまったと悔いている。そんな中、日下は逆風も厭わず、持ち前の意志の強さで機会を掴んだ立派な奴だ。私が会った時僅か二十歳であった彼は、鳥羽伏見・会津・函館と連戦の後、維新後に名を変え、長崎や大阪で支援者を求め、ようやく聞多の知遇を得ることに成功し、後に岩倉使節団に参加する。帰国後は内務省や長崎・福島県知事、外国大使等を歴任。そして後には渋沢とも協力し故郷に岩越鉄道を開通させることに尽力した、会津出身の出世頭の一人だ。ちなみに日下(くさか)と言う名は、会津の出自を隠し、長州人のフリをしようとして、久坂(くさか)玄瑞から連想してつけた名前だという説があるが、さて本当の所はどうなのであろう……



2021/03/15

明治四年一月二十五日 (1871/3/15)

「晴れ。吉井源馬が来た。大久保と西郷が話しに来た。私は心の内を打ち明け、不覚にも泣いてしまった。涙に胸がつまり、言葉が出て来なかった。この二三年、我々は時代の流れに取り残されぬよう千苦万辛の思いで頑張ってきた。しかし万事が上手くいかず、人心の不興を買ったのみだ。過去二十年間を安穏の内に過ごしてきた官員達も、僥倖を以て、今は親政府で働いているが、彼等はこのような辛苦を味わったことがなく、重要な案件について間違った選択をしてしまうことが多々ある。誠に遺憾だ。安場と大田黒が話しに来た。彼等の地方(肥後・熊本)に出兵するという御沙汰があったらしく、大久保と私に会いに来たのだと言う。二人はこの決定に大いに反対し議論を展開した。二人とは神戸で会った。私は杉と東京に向かう手筈であったのだが、この出兵云々の議論のため、ここに留まることにした。記、今宵、大久保と西郷に会いに行くにあたり、護衛にうんざりしていたこともあり、私は兵隊達に何も言わずに出てきた。彼等はしばらくして西郷の部屋まで私を探しに来た。」 

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太田黒は明治九年『神風連の変』の首領だ。彼は国学と神道を学び、尊王攘夷に傾倒し、神官となった。国を憂いる心は本物であったが、政府の欧化政策に同調できず、廃刀令をきっかけに決起し、僅か百七十人で熊本鎮台を攻めた。内、彼を含めた八十人超が自刃して果てた……



2021/03/14

明治四年一月二十四日 (1871/3/14)

「穏やかな天気。宮本、三好、河野に請われ、一緒に蒸気船で浪華に移動。山縣も同船しており、船内では馬渡にも会った。十時に神戸で錨を上げ、十二時には浪華に到着。上陸地には護衛の兵隊達が既に待機していた――電信とは優れものだ。常安邸に一泊。山田、松本、佐々木、その他大勢の来客。松本と佐々木は私を訪ね神戸に来る予定であったらしい。山田は私宛の手紙を持ってきた。記、山縣も訪ねて来た。山田に近情を説明し、有志達が分裂せず国家統一の土台を確立できることを祈っていると伝えた。今日、プロイセンの青木周蔵からの手紙を受け取った。」

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電信は明治の技術革新の中でも最も重要なものの一つであった。1844年のモールス氏の実験成功から、電信は驚異的な早さで世界中に広がり、十年と経たぬ1851年には既に世界初の海底ケーブルが英国と欧州を繋いでいた。佐久間象山等、先見の明ある人々はこの技術のことを知っていたが、日本は国として完全に出遅れており、電信設置は新政府の緊急課題の一つであった。我々は御雇い外国人達や国際的な協力者に恵まれ、この年、明治四年には上海やウラジオストクへの海底ケーブルを通じて、電信で世界と繋がることに成功した

 


2021/03/13

明治四年一月二十三日 (1871/3/13)

「晴れ。山縣狂介(有朋)と熊野一郎が到着した。両者とも此度の変を聞き、私同様、深く嘆いていた。河野亀太郎が私を訪ね、浪華からやって来た。三条公、野村、藤井宛の手紙を書き、杉に託した。その他、幾つかの案件に関する私の愚考を伝えておいた。河村大丞が訪ねて来た。杉は、四時過ぎに乗艦。今朝、安場逸平と大田区露岩太が訪ねて来た。山縣と一緒に港に到着した鳥尾小彌太も訪ねて来た。」

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鳥尾、山縣そして三浦の三人はみな奇兵隊以来の付き合いで、私は三人とも仲良くしていたのだが、お互いとの関係性は複雑なものであったようだ。鳥尾も三浦もヤンチャ坊主気質で、山縣より十歳ほど年少であったにも関わらず、彼の藩閥政治に反発、対立していた。だがそれも仕事や主義上の話であり、人間としてはお互いを深く尊敬・信頼していたらしく、晩年まで交友があり、死を前にした鳥尾も山縣も、三浦に家族や後事を託したという



2021/03/12

明治四年一月二十二日 (1871/3/12)

「曇り。七時前から小雨。十時前に神戸に到着。上陸したところで、長門屋から廣澤遭難の報せを受ける。驚愕と悲憤に言葉が出なかった。長門屋で大久保と西郷に会い、共に布引に向かった。廣澤の変のおおましについて書かれた槇村の手紙が届いた。昨冬、廣澤は一枚の手紙を私に送った。その中で、彼は時勢に対する義憤、彼自身の強い責任感を表していた。私はこの手紙を今一度取り出し、何度も読み返し、彼との永別を想った。落涙を抑えられるず、惨憺たる思いであった。王政一新の際、廣澤は新政府の中で私を支持してくれた唯一の男であった。今日この報に際し、悲しみの深さは自身の兄弟を亡くしたよりもさらに深かった。河村兵部大丞、中山神戸知事、その他の来客が次々と訪れた。小川彦右衛門が手紙を寄こした。河村宗一が私に直に会いに来た。政府の前途は元より、私情においてもこれ以上に辛い試練は無い。私はかねてより、政府での人情が軽薄になっており、このような事態を危惧していた。これを機に、同志達が全力でこれらの悪を掃討することを誓ってくれることを願った。明日、東京に戻ることを決めた。東京から戻ってきた殿川一助が近情について語りに来た。山縣篤蔵はここで私を待っていた。記、兵部省が私に護衛を寄越した。辞退しようとしたが、これは許されなかった。今日、肥後大参事の安場逸平と太田黒岩太郎が訪ねて来た。私は当地の知事、中山と話している最中であったので、その場では彼等とは会わなかった。代わりに私は彼等の宿を訪ね、しばし話しこんだ。彼等の話では、肥後藩は今は安定し、政府を奉り、国家の振興を助けたい想いで一団しているとの話であった。廣澤遭難の話を聞き、彼等は政府の衰絶を憂い、真摯に心内を打ち明けてくれ、私は感動した。日夜、兵士達が私の部屋を護衛してくれた。」

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廣澤は無二の友であった。同い年ということもあり、彼とは家族ぐるみの付き合いで、何でも率直に話すことが出来た。私は強い意見が原因で、大久保や他の連中と衝突することも多々あったが、そんな時にはいつも廣澤が緩衝材となり間に入ってくれた。彼の死は早すぎ、私はまた一人残された……



2021/03/11

明治四年一月二十一日 (1871/3/11)

「晴れ。九時頃に高知を発つ。川を湾に向かう舟で下っていると、私に会いに来る途中であった板垣と鉢合わせになった。私は舟の上から、彼は橋の上で下馬し、次は浪華で会うことを約束し別れた。浦戸までの川からの景色は素晴らしいもので、天気にも恵まれていた。十一時前に雲揚艦に乗ると、大久保と西郷もすぐに来た。藩廟から数百の鶏卵の土産を頂戴した。……を五時頃に通過。今日は波風も穏やかであったのだが、ここに来て船は激しく揺れ、北東から吹き始めた風も強くなる一方であった。八時頃に風も落ち着き、五時頃に由良に到着。」

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雲揚艦は元々長州藩が維新の前にイギリスに発注した軍艦で、この数か月後に明治政府海軍に献納され、その後は海外からの賓客を迎えるのに使われたり、佐賀の乱や江華島事件で活躍したが、明治九年、残念ながら萩の乱の最中に暴風雨に遭遇し破壊されてしまった



2021/03/10

明治四年一月二十日 (1871/3/10)

「曇り。西郷が訪ねて来た。私は一行と共に、板垣、福岡、下村に会いに藩廟へと向かった。……の案内で、我々は騎兵寮屯兵所と調練所での調練を見聞した。雨が降り始めたので、三時頃に宿に戻る。西郷とは門前で別れ、大久保を訪ねた。福岡が私を訪ねて来たが、私は不在だったので、彼は大久保の所まで来て、昨日の提案を支持する決断が下されたと報告した。昨日、知事公(山内豊範)に和紙と鰹節の贈り物を頂戴した。」

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土佐和紙は平安時代に遡るほど由緒正しく、他の和紙より薄いのに丈夫だという素晴らしい特性を持った逸品だ。書道は勿論のこと、貝合わせや人形と言った工芸品、更には紙衣や弁当箱まで作れてしまうというのだから驚きだ。今では世界中で、美術品や文化財の修復にも使われているらしい



2021/03/09

明治四年一月十九日 (1871/3/9)

「晴れ。杉と宮城が来たので、一緒に城下町を散歩した。街中では若者たちが群れをなし、凧の尾を竹竿で争い奪っているのを見かけた。この地域の習慣では、男子が生まれた家庭は凧を飛ばし、人々がその尾を争い奪うのだと聞かされた。長いものは五、六十丈ほどの尾の凧もあった。帰り際に杉の宿に寄り、昼寝をした。六時頃に板垣、福岡と下村が会合用の場を設け、大久保、西郷と私を招待した。西郷を始めとして、我々はこの旅の主目的を語り、次いで板垣が藩事情について説明し、この地の人々は朝家に尽力する意思で結束していると主張した。故に、彼は知事公に今宵の会合について報告し、明日までには確固たる返事を返すと約束した。その後、我々は酒を飲みつつ時事を議論し、十一時頃に解散。公式の話の後には、他の大属や役人達も酒席に加わった。」

2021/03/08

明治四年一月十八日 (1871/3/8)

 「曇り後雨。大久保と西郷が訪ねて来た。その前に板垣退助が来たので、私は彼に今回の旅の目的の大略を伝えた。彼とは三年来の付き合いで、昨年から頻繁に会っている。彼は時勢をよく理解しており、皇国の前途を見据えている。彼が藩政改革で作った実績は見事だ。諸藩が同様に奮っていないのは残念なことだ。私が今回の件について自説を唱えると、彼は一つの疑問もなく直ちに快諾した。彼は昨年からこの藩の大参事を務めている。下村珪太郎が訪ねて来て、私は明日大久保と西郷と共に会合に参加することを約束し、その後大久保と西郷を訪ねた。四時頃に、杉と宮城が私に会いに来た。今夜は、板垣大参事・福岡権大参事・下村小参事が訪ねてきて、藩政改革の件についてなどを議論した。宮城はこの改革について見聞する為にこの旅に付いて来たのだ。我々は酒を飲みつつ話をし、十二時過ぎに解散した。」

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板垣退助。彼との仲は若気の至りと言うか、一時の気の迷い(?)と言うか……大久保と仲違いした時には反動から、良く私の話を聞いてくれる彼と仲良くなったりしたのだが、実際同盟を結んでみると、実は余り深く考えてない所があったり他の変な連中が付いて来たとかで、少し苦労したものだ……



2021/03/07

明治四年一月十七日 (1871/3/7)

「晴れ。十時頃に天候が落ち着く。四時前に高知湾の入り江に到着停泊。漁船で湾に入り、高知城下に向かった。休憩を挟み、浦戸の岡林某の家に行き一泊、十一時近くであった。小参事……。記、漁船で乗り上げたサエン浜にはいくつもの新築の酒楼が並び立っていた。」

2021/03/06

明治四年一月十六日 (1871/3/6)

「曇り空、東風。昨日まで一緒だった者達に見送られ、十時過ぎに錨を上げた。五時頃に佐賀の関を通過した。十二時過ぎに波風が立ち始め、雨模様となった。記、昨夜、秋山周作が九州から戻ってきて、松方と鳥尾の手紙を持参すると共に、九州の近情について大まかなところを伝えてくれた。遠田甚助と池良からの手紙も届いた。『二つ岩の狭間の竹林』と題された張秋谷の掛け軸を入手した。五岳にインドの墨画を贈られた。」

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張秋谷、後に張秋穀と名を改めたこの画家は中国生まれなのだが、十八世紀に長崎に来舶し南宗画を日本に伝えた『来舶四大家』の一人だ。職業的画工が仕事で描くのではなく、知識人が余技として描くことを主とした南宗画は私の理想でもあり、これを機に蒐集できたのは僥倖であった



2021/03/05

明治四年一月十五日 (1871/3/5)

「昨夜訪ねて来た人々がまた来たのに加え、その他の客人達で我が家は一杯であった。私が十時過ぎに出発した時には、糸米の農民達が総出で見送りに来てくれた。中村芳三郎、大津四郎右衛門、鹿島庄右衛門と片山熊二郎が三田尻まで送ってくれた。勝坂元兵衛の家で小休憩、食事を取った。四時過ぎに問屋口に着き、西郷、大久保、池ノ上と落ち合い、肥後屋に泊まった。梶取、同町、藤松と山根が来た。」

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私の自宅があった糸米村の農民達は皆、素朴で良い人達であった。私は遺言で自宅と山林を糸米村に寄付し、村民の学資とするよう希望し、これは正二郎によって実現された。少し恥ずかしいのだが、村民達はこれに恩を感じたのか、私を祭神として木戸神社を創建してくれた。春の桜が美しい、良き神社だ



2021/03/04

明治四年一月十四日 (1871/3/4)

「白雪が空を満たし、四方の山は宝石のようだ。勅使一行は今朝出発し、小郡口を通り出て、今は亡き大村(益次郎)兵部大輔の墓参りをしてから三田尻へと進んだ。明日御船で発たれる予定だ。大久保も今朝出発した。十二時過ぎに新御殿に参上し、御裏で拝謁。その後政廟に参上し、いくつかの議題に関して愚案を建言、五時頃にまた御裏に戻り両公の奥方様達に拝謁した。八幡と山田を訪ね、薄暮に宿に戻った。三文字屋虎二郎が来た。彼は昨年の国難の節には陰ながら私達を助けてくれたので、彼には短冊に書かれた三条公の詩を贈った。今日も来客山の如し。 これは全ての名前ではないが、山縣弥八、坪井宗右衛門、大津四郎右衛門、岡義介、寺内、佐藤弥、正木市、兼重譲、白根多、秋良敦、岡村熊、その他大勢が来たが、ここに全ての名前を書くのは無理だ。最後の客が去ったのは、もう四時近くであった。」

2021/03/03

明治四年一月十三日 (1871/3/3)

「雪舞うこと花咲くが如く。ここ十七年のうちでも一番に寒い冬だ。十二時に、両公が勅使の滞在している旅館で晩餐会を開かれ、私も参席した。三時頃に廣澤の家に行き、次に湯田で大久保に会い、九時過ぎに宿に戻った。来客が引っ切り無しで非常に忙しかった。」

2021/03/02

明治四年一月十二日 (1871/3/2)

「晴れ。朝から各所より来客あり。近頃、湯治に来ている肥後の人間が一二名も話をしに来た。十一時過ぎに杉を訪ね、一緒に政廟に出仕、血気盛んな若者達の問題について議論した。五時に退出し、湯田で岩倉卿との謁見し、大久保と会った。帰り道に西郷を始めとした今回山口城に入城した人々を訪ねた。皆、明日出立の予定だ。大久保は一人、明後日に発つ予定だが。九時に宿に戻ると、私の部屋は山のような来客で溢れていた」

2021/03/01

明治四年一月十一日 (1871/3/1)

「晴れ。今宵、岩倉卿が両公をお訪ねになり、私も同席した。終日、来客絶えず。今夜は山縣狂介(有朋)の家で人々と話した。久保や杉が居た。記、今日、奥平二水(数馬)が萩に帰ってきた。」

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杉や奥平の様に風流な友人達はかけがえのない宝物だ。一年前に私が萩に戻っていた時も、我々は秘密の会合を開き、一興としてこの火鉢に寄せ書きをしたのであった。私が石を、杉が竹を、奥平が山茶花を、宍戸が梅を描き、野村が詩を書いたのだ。名作ではないかね?



明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...