2021/05/31

明治四年四月十三日 (1871/5/31)

「晴れ。三輪惣兵衛の所で岡に会い、そこから忠正公(敬親)の墓参りに向かった。杉を訪ね、小澤を訪ね、そこで予期せず井上世外(馨)に会った。世外は今日山口に着いたらしく、東京の近情と、三条岩倉両卿からの『直ちに東京へと戻るように』との指示を伝えてくれた。六時過ぎに帰宅。同じく山口に戻っていた三浦梧楼からの手紙が届いた。福井順道と杉山耕太郎からの手紙も届いた。夜、草刈が来て泊っていった。」

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三輪惣兵衛は醤油の醸造や質を営んでいた山口の豪商の一人で、よく他藩からの客人を泊める家として使われていた。幕末には坂本龍馬、明治になってからも大久保や西郷従道と言った人々が泊ったことがあり、廣澤や私も良く訪れたものだ。

2021/05/30

明治四年四月十二日 (1871/5/30)

「晴れ。三好軍太郎が来た。大山格之助(綱良)宛の手紙を認め、他の手紙と併せて彼に託した。今朝、山田市之丞(顕義)が下関に向けて発った。彼とは昨夜、幾つかの手紙でやり取りをしており、諸部の大属達に徴兵論を渡すよう伝えておいた。横山源四郎が訪ねて来た。彼と最後に会ったのは五六年前だ。十数年前、西洋銃の部隊を構成した時に、私は彼を士官に任命したのであった。中島四郎と福原三蔵が来た。十時頃に忠正公(敬親)の墓参りをしてから出仕、十二時過ぎに退出。正木、岡、草刈、宗像が訪ねて来た。月明りを頼りに、草刈と湯田まで歩き、瓦屋に一泊。」

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大山綱吉は大久保と西郷の同郷の士で、精忠組仲間だ。薬丸自顕流の達人でもあり、弥九郎先生の道場の先代塾頭と立ち会った経験もある。同じ剣豪として、また薩長同盟での調印に立ち会った相手として彼を評価したいのは山々だが……後に県令の立場にありながら新政府を蔑ろにし、租税を収めず、また西郷の蜂起に資金援助をしたのは、許し難い罪だ。明治四年時点ですら、日田事件でのも新政府の命を無視して独自の方法で問題を解決するなど、その兆候は見え始めていた……



2021/05/29

明治四年四月十一日 (1871/5/29)

「雨。奥平二水、寺内弥二右衛門、岡竹城、宗像十郎が訪ねて来た。山田市之丞(顕義)も来たので、藩廟門前まで一緒に歩きながら、陸軍局の問題について話した。藩廟に着いてから、大参事達と免税の一件、士族を常職から解く一件等について、変わりゆく時勢を鑑みながら議論した。知事公に良い助言を提供するのは、今年一番の重要課題だ。その当否が後世に至るまで公の評判を決定するからだ。この重責は重くのしかかっている。四時過ぎに退出、忠正公(敬親)の御墓所にお参りした。帰り際に小幡の所に寄ってから、幾つかの重要案件について杉に相談に行った。夜、片山の所に行き、井田と大田黒の両参謀宛の手紙を認め、明日日田に向けて発つ三好軍太郎に託した。小幡、岡、草刈が訪ねて来た。十時過ぎに中村屋に行き一泊。」

2021/05/28

明治四年四月十日 (1871/5/28)

 「晴れ。七時に出仕、十時に常栄寺山までの御出棺にお供した。埋葬は四時に終わり、少しの間城に戻った。御奥で御霊牌を拝み退出した。遠近を問わず、幾千人もの数えきれぬ人々が葬儀に参列した。市中の宿はどこも混雑していた。二州(周防と長門)の人民で、涙を流していない人間は少なかった。知事公と二人の御夫人に謁見した。心中の悲痛は深く、私は一日中上の空であった。記、明方に、野村靖之助から、御堀耕助が下関に戻ったとの報告を受けた。そこで小林武兵衛に李家文厚が戻って来たと伝え、三田尻に泊まる手配をするようにと指示を出した。」

2021/05/27

明治四年四月九日 (1871/5/27)

「晴れ。八時頃に中村芳之助が陸軍局について話しに来た。九時過ぎに湯田に行き、山田と兵事について議論した。二時に出仕、柏村を始めとした数名と徴兵制について話し合った。また諸部の大属達と今後の事業について打ち合わせた。痛嘆に値することが少なくない。七時過ぎに御棺を拝みに行き、そこから御墓地へと移動し、八時頃に帰宅。」

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私は早い段階から、大村や山縣の主張する国民皆兵、徴兵制を支持してきた。日本が近代国家の仲間入りをする上で、これは避けては通れぬ道であった。だが国民全体から広く兵を募るということは、『戦うこと』が存在意義であった武士達を解体し四民平等を導入することと同義であった。当然士族からの反発は強く、また政府内にも保守派の反対論者は少なくなかった。大村を暗殺したのも、徴兵令を含めた軍制改革に不満を抱いた者達だ。徴兵令は結果として最初明治六年に発布され、これは軍の近代化を進めるのに貢献した一方、後の不平士族の反乱へとも発展した

2021/05/26

明治四年四月八日 (1871/5/26)

「晴れ。徳山の遠藤貞一郎が本末併合について論じに来た。十一時頃に出仕、十二時過ぎに退出し萬代屋に向かい、大黒屋の新築を一見し、片山で杉と久保に会った。徴兵制、その他の改革について議論した。山縣も同席。四時頃に帰宅すると、奥平と小幡が待っていた。萬代屋が大工の正兵衛を連れてきた。深川と……も来て、我々は一緒に飲み語った。九時頃に解散。奥平は残り、泊っていった。」

2021/05/25

明治四年四月七日 (1871/5/25)

「晴れ。十一時頃、片山の奥平と山縣を訪ね、二時頃に帰宅。中村芳之助が話しに来た。河村も来た。夜には笠原半九郎と江木清二郎が話しに来た。国内外の時情について談論した。十二時頃に解散。今宵、徳山の知事公からの使いとして新見某が来た。新見は十四、十五年来の知人だ。記、野村素介から日田県について報告が届いた。」

2021/05/24

明治四年四月六日 (1871/5/24)

「雨。十一時に出仕。萬代屋に行き、文平と山縣を訪ねた。奥平が話しに来た。夜一時過ぎに奥平と共に中村屋に行き、一泊。記、三好が話しに来た。」

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旧友の奥平二水(謙輔)とは、当時良く一緒に過ごしていたな…… 奥平は義に厚い男で、戊辰戦争の折には会津人の友人であった秋月悌次郎に降伏勧告の手紙を送り、その際に将来有望な会津の少年達を書生として預かったりもした。その内の一人は山川浩の弟で、後に東大総長となった山川健次郎だ。だが、その奥平自身は不幸にも明治九年に前原と共に萩の乱を起こし、斬首となった…… 唯一の救いは、会津の人々が未だに彼に恩義を感じているということであろうか。友よ、安らかに眠れ



2021/05/23

明治四年四月五日 (1871/5/23)

「朝晴れ、後曇り。詩、野田邸門の桜を眺めていると、若葉の上に露が見えた――その儚さに我々は涙する――唯雪。大津、坪井と奥平が訪ねて来た。山縣も来て、我々は数時間話した。二時過ぎに解散。阿部平を訪ね、三輪惣宅に向かい、書物と石灯篭を見物。四時前に帰宅。」

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大津唯雪は元の名を村田次郎三郎と言う。彼の父君は、御老公がまだ二十歳の頃に藩政を任され、天保の大改革を成し遂げられた、村田清風だ。この改革のお陰で我が藩は財政は立て直し、明倫館を拡大することで人材育成に注力した。彼無しには幕末に長州が活躍することは叶わなかったもしれない



2021/05/22

明治四年四月四日 (1871/5/22)

「雨。三条卿、岩倉卿、井上世外(馨)、山縣素狂(有朋)と自宅宛に手紙を書き、中山澄江に託した。北川が訪ねて来た。四時前に藩廟に出仕。退出後、萬代屋に行き、一緒に片山の所へ向かった。山縣と話した。奥平二水が山口に来た。中村屋に一泊。」

2021/05/21

明治四年四月三日 (1871/5/21)

「晴れ後、雨。森清蔵が訪ねて来て、北海道について議論した。清蔵は近日東京に向けて発ち、その後北海道に行く予定だ。杉が来て、一緒に出仕した。今日は御老公の御棺の前で念仏を唱える儀式があり、知事公は御棺前で御父君の遺書を大参事にお渡しになられた。我々は皆涙を流しており、嗚咽を抑え込んでいた。一同は改めて御棺の前に進み出て、拝伏してから退出した。昨夜、長松少辨が日田から戻り、九州の近情について聞いた。彼の話では、薩摩も近い内に出兵する予定だという。また、大楽源太郎が久留米で暗殺されたという報があった。久留米の人々の、この軽薄な行いは信じ難いものだ。三条岩倉両卿にどのように報告するべきか、長松に指示を出しておいた。四時過ぎ退出し帰宅。東京での用事について幾つか忘れていたことがあったので長松を訪ね、詳細な指示を出した。帰り際に瓦屋に寄り、日下一郎(義雄)と話し、また山田を含めた数人と会い、十時過ぎに帰宅。記、清末の知事……が来た。今日、徳山と清末の両知事が我々と藩廟で面会し、本末合併の件について議論した。」

2021/05/20

明治四年四月二日 (1871/5/20)

「刺賀佐兵衛、岡義右衛門、宍戸……、内藤次郎、……と長府の三好周亮が訪ねて来た。山田市之丞(顕義)が、元会津人の日下一郎を連れて来た。日下は先日久留米のあたりで九州の近情を調査してきたばかりで、難波を経由して山口に戻って来たところであった。私は彼にもう一度日田に行ってもらいたいと思っている。李家文厚、三好軍太郎、岩岡安田……が来て、前途諸事について議論した。十一時頃、藩廟に出仕、退出時に長府の三好を訪ねたが不在。次に、萬代屋と片山屋に行き、山縣と杉と話した。三月二十一日(5/10)付けの三条岩倉両卿からの手紙が届いた。その中には最近の東京での出来事やご決断について書かれており、わたしはこの手紙を通じて東京の近情をよく理解した。今夜、中村屋に泊まりに行った。」

2021/05/19

明治四年四月一日 (1871/5/19)

「晴れ。旧友、難波傳兵衛が恩師の清水清太郎を連れて来た(先代の清太郎は私の無二の友で、1864年の折に切腹で果てたのであった。この清太郎は備中の人間で、長左衛門宗春の血統との話だ。阿対馬人……が来た。そして、片山治右衛門、小野為八と吉……が話しに来た。十時に竹田祐伯を訪ね、その後青木群平の所に寄ってから、二時頃に出仕。御老公の正式な忌日をいつに定めるかを議論した。後世まで間違った日付が伝えられることは避けねばならない。三時過ぎに御謁見所で棺を拝んだ。屋敷全体が沈んだ空気に覆われており、私自身も氷のような寒気を感じていた。退出後、明倫館に赴き山田を訪ねたが、不在であった。七時前に帰宅。八谷藤太、遠田甚助に手紙を出した。」

2021/05/18

明治四年三月二十九日 (1871/5/18)

「晴れ。奥平二水と北川清介が訪ねて来た。重見二郎兵衛も来た。十時過ぎに藩廟に出仕し、同僚達と共に御老公の遺言を綴った。また御寝所の御遺体に手を合わせた。誠に耐え難い喪失だ。四時に退出し、御墓地を巡察し、五時過ぎに帰宅。今日は、廣澤謙蔵と従者が故、障岳(広沢真臣)の頭髪を持参する予定であったので、私は廣澤の家へと向かった。大津と柏村も既に来ていて、一行は八時頃に到着した。九時頃に帰宅。今日は終日、御老公を想い、友を想い、ただひたすらに悲しく、嘆きの涙を流す外ならなかった。この心情は筆舌に尽くし難い。」

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香山に位置する毛利家墓所は御老公や、知事公(元徳)、知事公の御子息など、主に幕末・明治以降の毛利家の墓地だ。この墓地の静謐な空気は、動乱期を生き抜かれた御老公にお休み頂く上で非常に好ましい……



2021/05/17

明治四年三月二十八日 (1871/5/17)

「曇り。五時過ぎに御老公が遂に御隠れになられた。この悲痛は言葉に出来ない。家督をお継ぎになられてから三十七年間、御老公は皇国内外の統治に御苦心なされ、その功績は寸紙には記しきれない。御老公は政府の御柱であり、石江家の復興を成し遂げられたお方だ。今日、この死が世間に報じられれば、その影響は万事に及び、人心に動揺を引き起こしてしまうのではないかと不安だ。知事公が御葬式の指示を出された。私は十一時前に退出し、四時頃に再び戻ってきたが、その頃には、皆退出した後であった。帰り道で柏村に会った。その後山縣の所に行き、九時前に帰宅。今日、宍戸敬宇と山縣素狂(有朋)からの手紙が届いた。素狂の手紙には、東京で行われている厳重な取り締まりの詳細が記されていた。」

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今日、松平公、伊達公、山内公、島津公は『四賢候』と呼ばれている。一方の御老公は未だに『そうせい侯』なる陰口を叩かれている……誠に嘆かわしい。常に主君として責任を背負い、有能な人材を登用した御老公は、常に誰が何と言おうとも、私にとって一番の賢候だ



2021/05/16

明治四年三月二十七日 (1871/5/16)

 「晴れ。十時頃に山縣に会い、一緒に御老公の御住居へと向かった。御老公の体調は今朝悪化したものの、今は少し落ち着いていると聞かされた。一時過ぎに再びお会いに行くと、更にお元気になられているようであったが、この後どうなるのか、皆懸念していた。知事公は来月四日に東京に向けて発つ予定であったが、父君の御看護のため出発を遅らせる願出を出した。これを伝えるため、神代浪江が今夜東京に向けて出発した。私も、岩倉卿宛の手紙一通と、井上少輔、山縣少輔、三浦少丞宛の手紙一通を彼に託した。九州出兵の一件は薩摩藩が建言したものであったが、まだ一兵卒として派出されておらず、その為数多くの噂が囁かれている。言動の齟齬は人々の間に疑念を生むものだ。私は山根秀輔より報告を受けている、この件の現状について報告を行った。また本日、士族は申請すれば常職を解かれるという公布が行われた。この、私が提案した法令が失敗しないことを切に願う。もしこの法令が確立されれば、十年と経たぬうちに士族階級を廃止できると、私は疑っていない。藩廟を退出してから、徳山の遠藤と岩国の安田を訪ね、それから福原清介に会いに大和に向かった。山縣、坪井、奥平と大津が来て、一同は八時過ぎに片山の所へと戻った。山縣を含めた一同が、今夜藩廟に泊まることを決め、私は九時過ぎに御老公のお見舞いに向かった。御病気は一変し、非常にお苦しみのようであった。大参事も皆同席していた。朝の三時、四時、五時となるにつれ、御老公の苦しみは更に悪化し、見るに堪えなかった。全員が色を失っていた。」

2021/05/15

明治四年三月二十六日 (1871/5/15)

「晴れ。十時過ぎに、御老公をお見舞いした。昨夜より、病は酷く酷く悪化してしまったようであった。それから藩廟に出仕し、先日経済的観点を見落としていた藩兵と献兵の一件について再度議論した。未だ最終決定には至らず。退出時に、山縣と共に長屋藤兵衛を訪ね、それから片山の所へ向かった。御老公の体調は如何か尋ねる文を認め、何とか元気を取り戻しになられ、気分も回復し、食事も薬もお召し上がりになられているとの報せを頂いた。担当医達も一安心していると聞かされ、安堵した。ただただ迅速な御快復を祈るのみだ。十一時頃に二水と中村屋に一泊。」

2021/05/14

明治四年三月二十五日 (1871/5/14)

「晴れ。十時頃に山田を訪ねるが不在で、そこから大津の所へと向かった。帰り道、高杉家の近くを通る際に細君に出会い、今朝、御老公の病が悪化したと知らされた。また高杉翁がこの件について私に書き送った文も見せて頂いた。直ちに御老公の御住居に出向き拝謁。御老公は私とお会いになられ ―― 私は不覚にも涙を流してしまった。病のせいか、御気色が盛んになっているように見受けられ、担当医達も気遣われているようであった。聞かされたところによると、体調は今朝より少しずつではあるが改善してきているとのことであった。十二時前に帰宅。昨日の内に河北一から、今日は知事公が私をお訪ねになられる予定だと聞かされていてが、御老公の病の件もあり、これがどうなるかは不明であった。しかし御老公の体調が改善したこともあり、知事公は四時頃にお越しになられた。山縣弥八、大津四郎衛門、奥平数馬、及び四人の近侍もこの会合に同席。知事公は七時前に御帰りになられ、八時には他の者達も皆去った。記、長松少辨から日田県に関する手紙が届いた。」

2021/05/13

明治四年三月二十四日 (1871/5/13)

「雨後曇り。十一時頃に藩廟に出仕する途中、奥平二水に会った。二水は昨夜、熊毛から戻ってきたところだとの話であった。帰り際に萬代屋に寄り、それから杉猿村を訪ねた。大蜀として士族を率いる役割云々や、藩廟に布令係を置くことで人々がその日の内に決められた決定について知ることが出来るようにするべきだと論じた。これらは可能な限り早く実現したいと思う。五時頃、まだ雨が降っている中を帰った。山縣弥八が滞在している片山の所へと向かうと、数名の客が来ており、二水もその中にいた。十時過ぎに二水と中村屋に行き一泊。」

2021/05/12

明治四年三月二十三日 (1871/5/12)

「雨。斎藤栄蔵が来た。吉春も話しに来た……彼は佐畑の父だ。二時頃に久保が来て、昨日の評決の経済面について山縣が不服に思っていると教えてくれた。私はこの一件について目的を成就することが出来なくなることを恐れ、もう一度評議を開きたいと考え、野村の所へと向かった。不在であったので、一筆書き残しておいた。山田の所に行ったが不在で、また山縣の所も試したが同じく不在であった。六時過ぎに帰宅。今夜は片山一家と大津翁が訪ねて来た。夜、野村からの手紙が届いたので、すぐに返事を返した。記、遠田甚助に手紙を出した。野村の手紙の中には、群用局設立の案が今日認可されたと書かれていた。これは先日、私が建言していた提案で、政府と人々の間のやり取りを改善するためのものだ」

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実を言うと、事前に訪問する約束を取り付けずに人を訪ねるのは私の趣味のようなものだ。私の立場柄、事前に約束をすると、多くの人々を構えさせてしまい、率直な意見を聞けないこともあるのだ。とは言え、この日の様に三件訪ねて全て不在だと流石に気落ちしてしまう……

2021/05/11

明治四年三月二十二日 (1871/5/11)

「晴れ。十二時に藩廟に出仕。壮兵の一件や、献兵の一件など諸々の案件について評決。五時に退出。今日から、糸米宅に戻る。」

2021/05/10

明治四年三月二十一日 (1871/5/10)

「曇り後晴れ。十一時頃に山田を訪ねたが不在。藩廟に向かう途中に大津に会い、家に招待された。山縣と久保も同席しており、暫し話し込んでから一緒に藩廟に出仕。三時に退出。帰り際に小幡を訪ねてから山縣の所に行った。夜、久保と山縣が私のところに話しに来た。」

2021/05/09

明治四年三月二十日 (1871/5/9)

「雨。大津、山縣、福原三蔵が訪ねて来た。福原は今日東京に向けて発つ。私は山縣狂介(有朋)、宍戸三郎、三浦梧楼、吉富藤兵衛宛の手紙を彼に託した。十二時に藩廟に出仕、退出時に山縣を訪ねてから宿に戻った。山田が陸軍局の問題について話しに来た。」

2021/05/08

明治四年三月十九日 (1871/5/8)

「晴れ。舟木を九時に出発。内藤玄泰、……、大庭父子が宿幡まで私を見送りに来た。一時頃に小群の小泉屋で昼食を取り、四時過ぎに湯田に戻った。温泉に浸かり、黄昏時に宿の中村屋に帰った。妹の治子を始めとした数名も、中村屋に滞在していた。夜、大津の所に行くと、山縣弥八と片山一家も同席していた。記、北川が小泉屋まで話しに来て、関門内まで私に同行見送りに来た。」

2021/05/07

明治四年三月十八日 (1871/5/7)

「雨。十時頃に細雨。渡邊、遠田、三好、野村、南野、杉山、長父子、福原三蔵が見送りに来た。十時過ぎに下関を出て、十二時過ぎに長府に到着。熊野清左衛門が問屋場まで私を訪ねて来た。二時に小月に向かい……で昼食を取る。七時前に舟木に到着し、大庭に泊まった。」

2021/05/06

明治四年三月十七日 (1871/5/6)

「強烈な東風と豪雨。来客絶えず。豊浦、三好、品川のお招きにあずかり四時過ぎに大阪楼に出向き、昨日話せなかった内容について議論した。十一時頃に宿に戻る。峯が一緒に泊まりに来た。池良の所に滞在していた、三井の番頭、八郎右衛門が私に面会を求め、四時前に池良と共に来た。小月……記、山中屋。」

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八郎右衛門と言う名は、三井家の当主が代々名乗っていたもので、私に会いに来た八郎右衛門は八代目高福であった。彼こそが、幕末に時勢を見極め、一早く新政府に貢献することで財閥の基礎を築いた功労者だ。明治九年に政界に戻った聞多の先収会社の事業を引き継ぎ、三井物産を興したのも彼だ



2021/05/05

明治四年三月十六日 (1871/5/5)

「晴れ。朝、池良、長、来島が来訪。東京に手紙を出した。三好軍太郎の報せでは、長府人、品川と三好が私に会いに下関まで来る予定だとのことであった。そこで私は夜に大阪楼に行く予約を入れた。三時過ぎに無鄰菴(東行菴)に行ったが、小藤一人を除いて他は皆帰った後であった。この小藤とは、故主人である福田悠々の妾であった人物で、私達は少しの間昔話に興じた。私は一杯の茶を頂き、その後大阪楼に向かった。三好と品川とは、藩政や時勢について語った。黄昏時に宴会を始め、十二時前に宿に戻った。雨。」

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下関の清水山の麓にある、この無鄰菴は元は山縣が建てた草庵だ。東行がこの地に葬られていたこともあり、山縣は明治の初めに東行の愛人であったおうのさん贈ったため、それ以来は東行庵の名で知られている。ここは花木の管理が行き届いており、この時期は躑躅や石楠花が美しかった



2021/05/04

明治四年三月十五日 (1871/5/4)

「晴れ。五時頃に米屋で妹を始めとして数名と会った。そこから山城屋に向かい、五時過ぎに乗船、五時に(**原文ママ)下関に到着。そこから藩の荷會税へと向かい、渡辺と会い、網三のとところへと向かった。常六に泊まった三好が六時過ぎに私を訪ねて来た。我々は共に小舟で新地まで行き、招魂場を参拝した。去年設置された牌表には、国難以来の戦いで斃れた者達の名が、既に三百以上刻まれていた。当時を振り返り、私は惨憺たる気分になった。帰り際に新地に寄り、酒と食事を取った。十一時過ぎに、河野、杉山、能野と同じ舟で網三の所に戻った。詩、櫻木は越えても今年、咲きにしに、過にし人の面影もかな。遠田甚助が来訪。」

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治子は実の妹で、当時存命の数少ない家族の一人であった。心根は優しいが器量は人並みであったため、栗原さんという良縁に恵まれたことは非常に嬉しく思っていたのだが、夫を早くに亡くしてしまったのは不幸であった。息子の孝正、正二郎が二人共も欧米留学してしまい、寂しかったであろう

2021/05/03

明治四年三月十四日 (1871/5/3)

「晴れ。強烈な西風のせいで、丙寅艦は昨夜の内に到着出来なかった。一日中全くすることがなく、詰まらなかった。半雲の僧侶が来訪し、私は彼に野草の半切を贈った。昨冬には、この僧侶によく似た趙スンの作を一幅貸していたのであった。私はこの一作に小さな印を押した。藤松も訪ねて来た。三時過ぎに、三好、野村、杉山と河野も来た。夜には、山根秀策が話しに来た。十二時頃に解散 ― その後、丙寅艦が到着したとの報せが届いた。妹の治子と、妻の松子も到着した。峯平吉達が、貞永のところまで私を探しに来た。」

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東行は第二次長州征伐の直前に長崎まで出向き、グラバーから軍艦を購入した。藩に無断でだ。彼はこれにオテントサマ丸と名付けたが、これが1866年、干支が丙寅であったこともあり、この艦は後に丙寅丸と改名された。東行は当艦を巧みに操り、幕府艦隊を相手に奇襲をしかけ、大勝を収めた

2021/05/02

明治四年三月十三日 (1871/5/2)

「晴れ。野村靖之助が来た。今日は友の勧めで、馬関招魂祭に行く約束をしていた。また、とある長府の人間と会いたかったため、十一時頃、三好と共に三田尻に向かった。貞永を訪ね、彼の家に泊まった。夜、藤松、多之助、同町が話しに来た。三好は山城屋に泊まった。」

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野村は松下村塾の一員で、特に俊輔と仲が良かった。例にもれず松陰先生に傾倒しており、イギリス公使館の焼き討ち、第二次長州征伐での戦いなどに参加した。明治四十年に、松陰神社を建てるために俊輔と一緒に奔走してくれたのも彼だ。ちなみに俊輔の最初の妻は野村の妹のすみ子さんであった。俊輔はイギリスに渡航したり国事に奔走したりと何かと忙しく、そうこうしている内に梅子さんに出会い、すみ子さんと離縁することになったのだが、これがまた非常に良く出来たお人で、俊輔の御父母にもかなり気に入られており、私自身が間に入り離縁の説得をせねばならなかった



2021/05/01

明治四年三月十二日 (1871/5/1)

「晴れ。朝より来客多し。福原三蔵と三好軍太郎も来た。文平も来て、幾種かの桜と楓を植えた。三輪惣も来て、昨日の朱壇の壺と、草花の描かれたお盆を持って来た。十一時に藩廟に向かい、知事公に拝謁した。従来の卒を廃止し士族と卒を統合するとの発表が為された。知事公自らがこの決断を官員へとお伝えになられた。四時前に退出。今夜は三好軍太郎との約束があったので、大津と共に物産方を通って、萬代屋へ、そして三好のところへと向かった。東風が強烈であった。野村、久保、山田、佐藤、中村、その他数名の客がいた。雨が降る中、八時過ぎに帰宅 。帰り際に坪井を訪ね、中村屋に泊まった。今朝、深川、大谷と……が来た。」

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三好軍太郎(重臣)は奇兵隊の参謀を務めていた人間で、山田や三浦と言った人物達の同輩だ。維新後も陸軍に残り、戊辰戦争や西南戦争で功績を上げ、最終的には陸軍中将として東京や熊本鎮台の司令官など重要な役割を歴任した。明治初期にはまだ、彼の様な軍人達と我々文官達は良好な関係を築いていた……



明治四年五月十三日 (1871/6/30)

「晴れ。十一時頃に一時の豪雨と雷鳴。安玄佐とその倅が来た。井上世外が話しに来た。先日話した藩の会計局の一件や、その他の件の評議は先延ばしにされたようだ。十年後に待ち受けている大いなる災いが見えている者達はほんの一握りしかいなく、多くの役人達は目の前の問題に対応するのみだ。私はこの...